PR

地方 地方

【今こそ知りたい幕末明治】原口 泉氏 52 吹奏楽発祥の地、鹿児島

Messenger

 鹿児島は日本の吹奏楽発祥の地だ。この地に初めて軍楽が流れたのは、1863年の薩英戦争であった。英国軍が、錦江湾で軍艦兵士13人を水葬する際に葬送曲を奏でた。戦争を通じて英国の力を目の当たりにした薩摩藩は、対立から友好へと大転換し交流を始めた。1865年には、19人の使節・留学生を英国へ派遣し、西洋文化を学んだ。

 翌年、ハリー・パークス公使夫妻や、キング提督ら英国陸海軍300人が鹿児島に招聘(しょうへい)された。この交流では、相互の軍事演習が現在の磯海岸で披露された。

 英陸軍が演奏した軍楽に対し、島津久光を筆頭とする薩摩軍は「調練の内に音楽をも奏し、これ誠に面白く相聞こえ候由、その規則正しく、人皆感心いたし候」(『忠義公史料』第4巻)と大変感動した。

 また、島津久光・忠義親子は英艦に乗り込んだ。「楽を奏し、その国王の楽(国歌:原口注)をいたし候由、楽の音声我々共が耳にはじゃれぶし(戯れ節:注)の様に相聞こえ候」とあるように、耳になじみのない音楽のため、理解できなかった者もいたようだ。

 この薩英親善が後に横浜で実った。日本初の軍楽隊「サツマバンド」である。薩摩藩は明治2(1869)年、30人余りの若者を「軍楽伝習生」として横浜に派遣した。彼らは英国人より直接、指導を受けた。

 『陸軍軍楽隊史』によると、お雇い教師となった英国人ジョン・ウィリアム・フェントンのサラリーは90ドルであった。指導が始まるとサラリーは200ドルに上がった。そのお金は島津久光のポケットマネーから支払われた。

 肝心の楽器は舶来品に頼らねばならず、予算のない関係者一同頭をかかえていたところ、島津忠義から「何をしている、直ちに新品をイギリスに注文せい」と沙汰がくだり、ロンドンのベッソン楽器店から購入した。その代金が1組1500ドルであったという。これも島津家で出したというから、久光・忠義父子のおかげで「サツマバンド」は活動することができたといえよう。

 伝習場所であった横浜の妙香寺には、島津忠秀書「日本吹奏楽発祥の地」の石碑が建っている。また、薩摩藩の菩提寺(ぼだいじ)であった大円寺(東京都杉並区)には、伝習中に病死した森山孫十郎の献灯(明治3年1月建立)があり、伝習生30人の名前とともに「横浜で英国人に音楽を習い、努力の結果とても上達した」と刻まれている。

 また、この時、大山巌の依頼でフェントンが日本の国歌の元となる曲を作り、大山はその歌詞に琵琶歌「蓬莱」から、「君が代」を選んだ。このフェントン作曲の「君が代」にちなみ、妙香寺界隈(かいわい)は当時「君が代横丁」と呼ばれていたそうだ。こうして、日本の軍楽と国歌は薩摩人の手により生まれた。

 その後、1871年に海軍は中村祐庸、72年に陸軍は西謙蔵隊長のもと軍楽隊が組織された。両者ともサツマバンドの出身である。この陸海軍楽隊の初めての戦時演奏は、西南戦争であった。

 西郷らが立てこもる城山への政府軍総攻撃の前夜(1877年9月23日)。官軍は、攻撃をやめ銃をおろし、鹿児島市武岡の天神山から「見よ、勇者は帰る」「葬送行進曲」などを演奏した。惜別の曲であった。当時の軍楽隊は大体が薩摩出身者であり、同郷の薩軍に向け泣きながら演奏したという。

 軍楽隊員の中には隊から抜け出し、薩軍に入り戦死した者もいたという。明治天皇に演奏を奏上(そうじょう)する際、風で飛んでしまった譜面を西郷隆盛に拾ってもらったという恩があったそうだ。

 西南戦争後、陸軍軍楽隊のフランス人教官シャル・ルルーが、「抜刀隊」という軍歌を生み出した。曲は西洋的だが、歌詞は西南戦争で活躍した警視庁抜刀隊をモチーフにして、社会学者の外山正一がつくったものであり、国民的な流行歌となった。

 この軍楽隊が国民にさまざまな音楽を届けながら発展し、現在の吹奏楽へとつながっている。

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ブランドコンテンツ