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【今こそ知りたい幕末明治】乱世の「騙り」にご注意!?

長州藩の壇ノ浦砲台跡。現在、大砲のレプリカが並ぶ=山口県下関市
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 安政6(1859)年11月30日、福原●之助と名乗る男が、長府藩で砲術を指南する吉岡吉蔵に接触した。

 「私は箱館奉行の配下で、西洋砲術・理学・舎密(化学)・舶造学(造船学)の専門家。幕府の内密御用(隠密)で諸国を視察中であるが、希望があれば、西洋砲術などを教授してもよい」

 男はこう、吉岡に告げた。

 全国的な洋学ブームの中、先進技術を渇望する吉岡は、これ幸いと上役にも相談せず、息子の金次郎や、西洋砲術に詳しい河崎董ら3人を男に紹介した。男は、12月2日より、大小銃の打ち方や軍艦製造などについてわずか数日で4人に伝授し、同5日に長府を去った。

 男はその際、藩士4人が受講したとする書き付けを、謝礼の2両2分とともに受け取った。

 その後、吉岡から話を聞いた長府藩府は、男の素性に疑いを持ち、幕府に問い合わせた。その結果、箱館奉行の配下に福原という者は居らず、また教授派遣の話もないとの回答を得る。加えて、再来の折には、身柄を拘束するよう指示があった(「長府毛利家日載」)。

 男は、いわゆる「騙(かた)り」であった。

 翌年2月、男は、豊後国内で長崎奉行所の配下に捕縛され、その後の取り調べにより、素性や余罪が明らかとなった。

 男は、武蔵国金沢藩(六浦藩)の藩士・内藤登の弟だった。幼名を秀松といい、後に雄之助と名乗る。浦賀奉行組同心の浅野文蔵の養子となり、文蔵の死後、その跡を継いだ。

 西洋砲術などの知識や技術は、同心勤務中に習い覚え、また、個人的に興味を抱いて、積極的に書物を読み込んで得たものだった。長府藩で西洋砲術や銃陣を指南する4人が、何ら疑いを持たなかったのだから、相当のものであろう。

 ことに河崎は、嘉永6(1853)年、幕臣の下曽根金三郎に就いて西洋砲術や銃陣を学び、さらに、芝新銭座講武所で銃陣実習も受けた藩内随一の識者であった。

 男の同心勤務は、約7年間。病気を理由に職を辞し、さらに浅野家も出されて、実家に戻った。しかし、実家にも長居せず出奔。三好周蔵、那賀田龍造と名を変えながら、外国奉行配下と偽って、洋学を伝授して回った。

 東国では大した収入にはならなかったが、西国では重用された。11月22日に徳山(現山口県周南市)に入った男は、役人をだまして徳山藩士に近づき、藩士4人に7日間講義。謝金として1両を受け取った。徳山を離れる際、長府同様の書き付けを求めているが、それが、男の保証書となったようだ。

 長府を離れたあとは、豊後国で身分を詐称して、中津藩士33人に9日間教授して6両をせしめた。次いで別府に入り、温泉宿の女将(おかみ)をだまして宿泊。同所を拠点に、府内藩士18人に教授して2両2分を手にし、また、民間人にも製薬法などを伝授して、懐を暖めた。

 裁きの結果、男は身分詐称の罪などで遠島(流罪)。男から教えを受けた藩士と民間人は、奉行所が厳しく叱責。温泉宿の女将には、過料が課せられた。

                   ◇

【プロフィル】古城春樹

 こじょう・はるき 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。27年から市立歴史博物館館長補佐を務める。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。

●=金へんに隣のつくり

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