産経ニュース

広島・比治山陸軍墓地の慰霊碑銘板の「対馬丸」…元船砲兵の想い学ぶ

地方 地方

記事詳細

更新


広島・比治山陸軍墓地の慰霊碑銘板の「対馬丸」…元船砲兵の想い学ぶ

 太平洋戦争中の昭和19年8月、沖縄から長崎に向かう途中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、海に散った学童疎開船「対馬丸」。比治山陸軍墓地(広島市南区)に建つ「船舶砲兵隊慰霊碑」の銘板には、多くの子供たちの命を守りきれなかった砲兵隊の懺悔(ざんげ)を刻むように「対馬丸乗船 沖縄疎開学童」と添えられ、戦時下の悲劇を今に伝えている。

 「兵隊は、一生懸命に沖縄を守ろうとしていた」

 29日午前、広島経済大の岡本貞雄教授は、平和学習のためのワークショップに参加した県内の大学や沖縄国際大学の学生ら約60人とこの慰霊碑を訪れ、そう語り掛けた。

 慰霊碑は、戦時中に広島に旧陸軍の船舶部隊の拠点が置かれたこともあり、昭和52年に建立された。岡本教授は約半月前、ワークショップのコースの下見のために来て、この銘板に気づいた。陸軍墓地は数え切れないほど訪れているが、この地で今も対馬丸の犠牲者の追悼が行われていることに感動し、学生たちへの解説に加えた。

 「船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会」が平成4年に編集した「船舶砲兵部隊史」には、対馬丸に乗っていた元船砲兵の生存者、吉田董夫さんの記述がある。

 吉田さんは乗船時の子供たちの天真爛漫(てんしんらんまん)な様子に、「何としても無事に送り届けねばならない」と決意し任務にあたった。だが、鹿児島県・トカラ列島の悪石島(あくせきじま)沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。吉田さんは子供3人と漂流。数日後に救助されたのは、自分と1人の子供だけで、「筏(いかだ)の上で学童が最後に残した『お母さーん』の一語が今も胸に突き刺さったまま」と、無念の思いをつづった。

 対馬丸記念館(那覇市)によると、船には国民学校の学童や教員ら1788人が乗船。把握されている犠牲者数は1482人。戦後32年が経過して建立された慰霊碑に「対馬丸」の名を刻む思い入れの深さに、岡本教授は「当時の軍人の責任感の深さを想わずにはいられない」と語る。

 ワークショップに参加した沖縄国際大3年で、平和ガイドサークル「SMILIFE」に所属する、喜舎場静良(きしゃばせいら)さん(22)と、喜舎場永太さん(20)は「対馬丸の子供たちへの、船砲兵の方の強い気持ち、無念を感じた」と銘板を見つめていた。