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【今こそ知りたい幕末明治】長崎丸へ砲撃は長州藩の誤認か故意か 

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【今こそ知りたい幕末明治】
長崎丸へ砲撃は長州藩の誤認か故意か 

薩摩藩士ら28人を弔う長崎丸殉難者招魂碑=北九州市門司区の高輝山大蔵院 薩摩藩士ら28人を弔う長崎丸殉難者招魂碑=北九州市門司区の高輝山大蔵院

 北九州市門司区田野浦に、薩摩藩士ら28人を慰霊している寺院がある。高輝山大蔵(こうきざんだいぞう)院という。同院には、位牌と彼らが乗船した「長崎丸」の船板がまつられている。また、大正10(1921)年8月、境内に招魂碑が建立された。題字は同藩出身で首相も務めた松方正義による。住職によると、以前は12月に鹿児島県人会の方々が来て、供養の歌を詠んだとのことである。

 文久3(1863)年12月24日深夜、薩摩藩士ら68人が乗った蒸気船「長崎丸」が、小倉藩領の豊前国白野江村(現北九州市門司区)の部埼(へさき)沖で炎上、沈没した。28人が焼死、溺死した。

 長崎丸は幕府の洋式船で、薩摩藩が借用していた。同月22日、兵庫から長崎に向けて出港し、24日の夜五ツ時(午後8時頃)、東から関門海峡に入り、薩摩藩の船である合図として紋付大提灯を帆柱の上に掲げた。これは前月の誤射事件の際、薩摩藩と長州藩が取り決めた合図であった。

 しかし、どういうわけか長州藩領の台場から砲撃が始まった。長崎丸は対岸東方の田野浦方面に引き返した後、炎上、沈没した。乗組の薩摩藩士は「被弾によってではなく、機関室での失火によるもの」と証言している。

 問題は、長州藩の砲撃が、長崎丸を外国船と誤認したためか、あるいは薩摩藩の船と分かった上で、故意であったかである。研究者の中でも両方の見解がある。

 誤認説の根拠は、当日の天候である。濃霧、降雪、「雨雹(うひょう)」により見通しがきかず、分からなかったのではないかという。

 一方、故意説は、長州藩側に明確な意図があったと指摘する。つまり、薩摩藩が外国人と密貿易を行い、朝廷の攘夷政策に反していたことを長州藩は暴露しようとしていたという。翌月にも薩摩の商人が乗った船「加徳丸」が長州藩領で焼き打ちされている。

 「奇兵隊日記」にはこうある。

 「台場からは、雨雹で船が見えなかったが、船の『灯炉(とうろ)』を目当てに砲撃した」。灯炉が大提灯のことなら、薩摩藩と分かった上での砲撃といえる。

 さて、小倉藩領では、白野江村の部埼火立場(現在の部埼灯台)の火焚番が、燃える長崎丸を発見した。村役人に知らせ、救助の船を出そうとしたが、強い風波のため出すことができず、陸で様子を見守った。

 翌25日明け方、ようやく白野江村から救助の船が出て、近くの青浜に上陸させた。また裸同然、自力で陸に泳ぎついた者もいた。そこで、村人らが、暖を取らせ、衣類や宿、食事を提供した。

 乗組員らは小倉城下の薩摩藩御用達である村上銀右衛門が営む旅籠屋、村屋に移り、饗応を受けた。

 28日、乗組員のうち11人が帰国のため、福岡藩領の筑前国黒崎宿(現北九州市八幡西区)の薩摩藩御用達である古海正顕(ふるみまさあき)(のち宇都宮に改姓)の旅籠屋「桜屋」(薩摩屋)に泊まった。正顕は、乗組員から聞いた事件の話を「注進状」にまとめ、黒崎宿代官の櫛田角右衛門に提出した。

 この注進状の写しが、「玉里島津家文書」の中に残っている。同家は、島津久光が当主の家であり、久光がこの写しに目を通した可能性は高い。

 注進状は、郡役所、福岡藩庁の用人の手を経て、家老、さらには藩主の元に差し出される。ところが、ある段階で写し取られて流出した。博多にいた嘉悦市之進(肥後出身)が所持していた写しを、薩摩藩士の中村吉左衛門が借りて写し取り、薩摩藩庁に届けた。

 小倉藩領での薩摩藩に関する事件情報が、福岡藩内の上申ルートから漏れて薩摩藩に届いたというわけだ。薩摩藩の情報網が、広く深く張り巡らされていたかが分かる。

 話を戻す。文久4年1月8日、長州藩は、長崎丸砲撃を朝廷と幕府に届け出た。薩摩藩には謝罪の使者として桂譲介を派遣し、外国船と誤認した誤射であったと弁明した。

 最終的に、薩摩藩は長州藩に対して報復を行わず、誤射ということで一応収まった。ただ、元治元(1864)年7月の禁門(蛤御門)の変で、両藩は干戈を交えることになる。

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【プロフィル】

 もりとも・たかし 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。幕末を中心に北部九州の近世を、交通・情報の観点から調査研究する。