産経ニュース

西南戦争の慰霊塔、鹿児島・南洲公園に 薩軍・官軍、恩讐を越えて

地方 地方

記事詳細

更新


西南戦争の慰霊塔、鹿児島・南洲公園に 薩軍・官軍、恩讐を越えて

 西南戦争(1877年)から140年を迎え、鹿児島県内の僧侶や学識者らが、官軍(政府軍)と薩摩軍の戦没者を弔う慰霊塔の整備計画を鹿児島市で進めている。西南戦争では鹿児島出身者を中心に、親子兄弟、友人が敵味方に分かれ、激戦を繰り広げた。9月に除幕式を予定しており、関係者は「敵味方なく供養する薩摩武士道の博愛慈悲の精神を、広く発信したい」と語った。(谷田智恒)

                  ◇

 薩摩武士道を表す歌がある。

 回向(えこう)には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも

 「仏様を供養するのに敵味方分け隔てをするな。読経はしても、しなくてもよい」

 薩摩・島津家中興の祖と仰がれる島津忠良(日新(じっしん)公)が残した「いろは歌」の一首だ。いろは歌は、薩摩藩独特の「郷中(ごじゅう)教育」の基本になったとされる。

 歌の通り、忠良は戦国時代、加世田別府城(現・鹿児島県南さつま市)の戦い後、敵味方なく供養する「六地蔵供養塔」を建立した。忠良の孫で、「鬼島津」と恐れられた義弘は、朝鮮出兵の後、息子の忠恒(家久)とともに、和歌山・高野山に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建てた。

 だが、近代の西南戦争では、様相が異なる。

 西郷隆盛を担ぐ私学校党(薩軍)の決起で発生した西南戦争では、鎮圧した政府軍にも、鹿児島出身者が多く含まれていた。

 肉親、竹馬の友がたもとを分かち、悲劇的な戦いを繰り広げたことで、遺恨が積もった。西郷をはじめ薩軍約2千人は、鹿児島市が管理する南洲公園の墓地に葬られる。一方、鹿児島で亡くなった官軍の戦没者約1200人は、約1キロ離れた祇園之洲(ぎおんのす)公園に眠る。

 西南戦争140年を前に昨年、慰霊塔の計画が持ち上がった。

 「鹿児島ではいまだに、官軍の事実上の指揮をとった山県有朋や、(西郷暗殺を指示したとされる)川路利良は許せないという人もいる。だが、必死の戦いの後は、戦没者を敵味方なく供養するのが、薩摩武士道の精神文化だった。この精神にならおう」

 天台宗「南泉院」の住職、宮下亮善氏(70)は、西郷の子孫や文化団体などへ協力を呼びかけた。

 支援の輪は広がり、「西南之役官軍薩軍恩讐を越えての会」が発足した。

 同会の計画によると、慰霊塔は南洲公園内の「西郷南洲顕彰館」前に建てる。高さ3・6メートルの御影石製で、塔身には、官軍旗(旭日旗)と薩軍を示す島津家家紋を施す。両軍の戦闘を描いた錦絵のレプリカ陶板をはめ込む。

 台座は、西郷が書を好んだことにちなみ、硯(すずり)石の原石を使う。由来を紹介する石碑も建てる。

 総事業費約700万円は、有志の寄進で賄う。

 同会の会長を務める県立図書館長の原口泉氏(70)は「戦争の悲惨さと、平和の尊さを呼びかける思いで西南戦争を振り返ることは意義深い。明治維新や日本人の軌跡、戦没者に思いをはせながら、恩讐を越えて、理解し合える場にしたい」と述べた。

 除幕式は、9月23日午後3時から催す。翌24日は西郷の命日であり、西南戦争が終結した日だ。

 式には西郷や薩軍幹部、大久保利通の子孫らが出席する。問い合わせは南泉院(電)099・298・8247。