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435年祭法要 三原・羽倉で 義将・末近信賀偲ぶ 秀吉の高松城水攻めで切腹

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435年祭法要 三原・羽倉で 義将・末近信賀偲ぶ 秀吉の高松城水攻めで切腹

 戦国大名、小早川隆景の家臣で羽倉地域(三原市久井町羽倉)を治めた末近信賀(のぶよし)を偲ぶ435年祭の法要が28日、同地のJA三原久井中央支店で営まれた。末近信賀は、羽柴秀吉による備中高松城攻略の際、講和の条件として切腹した城主に殉じた戦国武将。日本史に残る舞台で武士道を示した郷土の先人として、地域で顕彰している。

 末近信賀の法要は、地元の有志らが結成した「末近四郎三郎信賀公を偲ぶ会」が没後400年祭から5年ごとに営んできたが、メンバーの高齢化などで今回から羽倉自治区の主催となった。

 この日の法要では、偲ぶ会名誉会長の天満祥典・三原市長が「三原城築城450年事業を展開していることもあり、市内各所のさまざまな史跡やゆかりの人物が改めて評価されている。このような歴史遺産を掘り起こすことで、地域の魅力を発信していきたい」とあいさつした。

 高松城があった岡山市からは繁定昭男副市長が参列し、「戦国時代に始まる両地域の友好の絆が、さらに深まることを念願している」との大森雅夫市長のメッセージを披露した。

 末近信賀は天正10(1582)年、羽柴秀吉の率いる織田軍が攻め寄せてきた高松城に、城主の清水宗治らの動向を監視する毛利側の軍監として入城。その後、水攻めされた高松城は落城寸前まで追い込まれたが、本能寺の変で織田信長が討たれた事態を受けて秀吉は急遽(きゅうきょ)、毛利側と講和を結んだ。

 講和条件とされたのは城主、清水宗治の切腹のみだったが、信賀は毛利を裏切らず最後まで城を守った宗治と生死をともにするとして、一緒に切腹したとされる。