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【静岡・古城をゆく】井平城(浜松市北区引佐町伊平) 武田の予想超える行軍裏付け

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【静岡・古城をゆく】
井平城(浜松市北区引佐町伊平) 武田の予想超える行軍裏付け

 井平氏は、鎌倉期の直時の時代に分家した井伊氏一門の親類衆で、その後、井平安直の娘が直平へ、井平直郷の娘が直宗へそれぞれ嫁いだ。すなわちこの娘2人は直虎の曽祖母と祖母にあたる人物である。

 元亀3(1572)年10月、武田信玄は遠江へ侵攻し、別動隊の山県昌景らは長篠方面から山吉田(新城市)へ侵入した。柿本城の鈴木重俊は井平に向けて敗走したが、三信街道の仏坂あたりで武田軍に追いつかれ戦いとなり、重俊と井平直成らの一群は激戦のすえ88人が討死したという(「井伊実記」)。

 その峠近くに“ふろんぼ様″と呼ばれている直成の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と戦死した多くの兵の石塔が祭られている。名高い三方ケ原の戦いに先だった仏坂の戦いであったが、その東方にあった井平城、屋敷、集落は焼き打ちに遭い、それがもとで井平氏は一時途絶えたという。しかし、天正元(1573)年に井伊直平末子の直種が家督を継いだが、天正18(1590)年、井伊直政に仕えて小田原攻めに参戦し、18歳の若さで戦死し井平氏は断絶したと伝わる。

 井平城は、仏坂から下がった霧山から南へ延びる丘陵先端に位置する。東西、南北90メートルほどの城域中央に1軒の農家が建ち、開墾された茶畑が広がる。畑道が堀状にも見えるが、際立った堀切、土塁、虎口、曲輪などの城郭遺構が認められないことは、武田軍の侵攻に対しの急造で未完成であったのであろうか。

 同様に鈴木氏の柿本城も、「鈴木氏系譜」に築城途中のことを記すように、武田軍は予想を超える迅速果敢な行軍であったことであろう。

 名跡を継いだ直種は、同城東麓の殿村に屋敷を構えたというが、遺構は不明である。(静岡古城研究会会長 水野茂)