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【九州の礎を築いた群像】リョーユーパン(5)浮き沈み

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【九州の礎を築いた群像】
リョーユーパン(5)浮き沈み

イオンモール筑紫野店内にあるリョーユーパンの直営店=福岡県筑紫野市 イオンモール筑紫野店内にあるリョーユーパンの直営店=福岡県筑紫野市

 ■「直営店は本体支える駆逐艦だ」 冬の時代乗り越える

 今年1月、リョーユーパン直営店本部長の中島高徳(54)は、ベトナム最大の都市、ホーチミンにいた。

 「RYOYU BAKERY」の看板が掲げられた店舗が開業した。リョーユーパンが技術協力した店だった。

 「海外で会社の看板を掲げられるのは、やっぱりいいな」

 入社から30年。目の当たりにしてきた直営店の浮き沈みが、脳裏によみがえった。

 リョーユーパンの直営店は、昭和40年代に始まった。

 高度成長で日本は豊かになった。食生活は個性化や多様化が進んだ。作れば売れる時代は終わり、付加価値が必要となった。

 パン業界では、多少高くても、本来のおいしさが実感できる「焼きたて」に注目が集まった。工場での大量生産から、電気を使った焼き窯を備えた直営店へ。広島の地場企業、タカキベーカリーが始めた「アンデルセン」が草分けだった。

 「同じ地場の企業。われわれもやろう」

 リョーユーパンの前身、糧友グループも直営店に乗り出した。社員を欧州に送り、店づくりを研究した。44年12月、第1号として、福岡市内にマルメ荒江店を開いた。

 マルメは、スウェーデンの美しい古都の名だ。高級店を目指した。45年3月には、より低価格のリスドォル春日原店を開店した。

 焼きたてパンの店を、スーパーが求めるようになった。香りを立てて窯出しされるパンは、スーパーに客と活気をもたらすからだ。

 糧友グループは、こうした小売り側の要望に応じた。工場で製造する「袋パン」を、そのスーパーの商品棚に置いてもらう効果もあった。

 中島が入社した昭和61年以降も、直営店は年を追って増えた。店舗ブランドも「プルネール」「ベルボアーズ」と多様化した。

 だがバブル崩壊後、直営店事業は、小売業の不振と再編の大波を被った。

                 × × ×

 中島は平成10年ごろ、大丸福岡天神店(福岡市中央区)に入る店舗を任された。

 リョーユーパンの直営店を牽引(けんいん)する存在だった。月の売り上げは平均3千万~3500万円、4千万円に達したこともあった。常に客で混雑し、7台のレジがフル稼働した。

 店長の中島も、従業員も充実感があった。

 だが、直営店全体を見渡せば、充実どころではなかった。

 モノが売れない時代。百貨店やスーパーは、業績不振に陥った。中小店舗の閉店が相次いだ。スーパーが不振なのに、そこに入居するリョーユーパン直営店の業績が良いはずはない。

 直営店は9年に153店に達していた。社長の北村俊策(65)=現会長=は実態を調べた。多くが赤字だった。厳しい現実を突きつけられた。抜本的な改革しかない。

 かといって拙速な退店は、スーパー側との関係悪化を招く。「袋パン」を置けなくなる懸念もあった。

 北村は11年、号令をかけた。直営店の収益力の向上に加え、赤字店を対象に、店長の希望に応じて独立オーナーとするフランチャイズ化を打ち出した。

 翌12年、中島は佐賀市や福岡県南部を担当エリアに、直営店を管理するブロック長になった。

 エリア内の11店舗の業績を、詳細に分析した。

 小規模スーパーに入る直営店が多かった。月の売上高が60万円程度という店舗もあった。赤字の店ばかりだった。

 「こんな小さな店を、どう黒字にしたらいいんだ」。中島は頭を抱えた。

 北村の方針に従い、8店を撤退・フランチャイズ化することが決まった。

 店舗には、そこで働く従業員がいる。「申し訳ない」。退職する従業員に、中島は頭を下げた。心が痛んだ。

 中島はもともと、パン職人として会社に入った。

 フランス国立製パン研究所の教授で、「パンの神様」と呼ばれたレイモン・カルベルを会社が招いたことがあった。中島はカルベルの横についた。小麦の風味や性質を生かす製法に、感銘を受けた。一言一句も聞き逃すまいと、耳をそばだてた。

 カルベルの教えを生かし、皆が喜ぶおいしいパンを作ろうと頑張った。

 だが、直営店の窯から火を落とすことが、仕事になった。

 「僕はパン職人なのに…。店を閉める作業ばかり続くな」。理想と現実のギャップ。つらい日々を送った。

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 そのころ、リョーユーパンに朗報が届いた。

 恵良(えら)薫(66)=現社長=に、面識のある九州ジャスコ(現イオン九州)の部長から問い合わせがあった。恵良は、直営店を統括する部署のナンバー2、直営店次長だった。

 「佐賀に新しいジャスコをオープンするんです。天神の大丸さんのパン屋を運営している会社に、出店してほしいんですよ。恵良さん、どこの会社がやっているか知ってますか」

 恵良は苦笑した。「あれは弊社ですよ」

 九州ジャスコは、大丸にあるパン屋のにぎわいぶりを見て、新設の佐賀大和店(現イオンモール佐賀大和店)へ出店してほしいと考えていた。

 「大丸で店長をしていた人間が、今佐賀を担当しています。話はうまく進むと思います」。恵良はそう伝えた。中島のことだった。

 恵良も、不採算店をたたむ作業に追われていた。恵良や中島にとって、久々に耳にする前向きな話だった。

 「閉鎖する店舗の従業員を、佐賀大和店に移すこともできる。なんとしても、話をまとめたい」

 2人はジャスコ側と協議を始めた。中島は、想定される売り上げや設備投資、利益を試算し、会社に報告書を提出した。

 社長の北村ら経営陣も、明るい話を渇望していた。審査の末、経営会議で出店の許可が出た。

 新たな店で、従業員は早朝から夜遅くまで懸命に働いた。店も繁盛した。焼きたてパンを売れる喜びを、かみしめた。

 だがスーパー冬の時代は続いた。13年9月にはマイカルが破綻した。九州では地場大手の寿屋、ニコニコドーが消えた。

 リョーユーパンの直営店も、ピークだった9年の153店から、60店台にまで減った。

 悪いことは重なる。平成16年、大丸福岡天神店が、直営店撤退を要請してきた。

 大丸のある天神は「第4次流通戦争」を迎えていた。岩田屋新館のオープン、天神地下街の延伸、天神ロフトの開業など、競争が激化した。大丸も店舗改装で対抗しようと決断した。その一つに浮上したのが、別のパン店への切り替えだった。

 大丸にある直営店の業績は悪くなかった。苦難のリョーユーパンにとって、希望の光だった。懸命に交渉したが、大丸の決定が覆ることはなかった。

 直営店の数は全盛期の4割にまで減った。希望の光も消えた。社内の雰囲気は暗くなった。

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 社員のモチベーションを何とかつないだのは、同時期に浮上したイオンへの出店だった。

 恵良や中島が奮闘した佐賀大和店を契機に、イオン側から出店要請が少しずつ入るようになった。

 16~17年にかけて、福岡県粕屋町、宮崎市、熊本市など5つのイオン系大型店に、リョーユーパンの直営店が入った。

 恵良や中島はジャスコ時代からイオンと信頼関係を築いていた。北村は、大学時代の人脈も活用し、イオン側に働きかけた。その成果だった。

 「売り上げ3千万円の大丸店がなくなったなら、1千万円の店を3つ作ればいいじゃないか」。中島は、従業員をこう鼓舞した。

 ようやくできた新店だ。赤字にするわけには、いかない。

 従業員も無我夢中で働いた。「焼きたてです!」。販売スタッフは、鐘を鳴らして声を張った。

 「諦めずにチャンスを待った若い従業員がいたから、新しい店をオープンできた。やはり、会社は人なんだ」。中島は目頭を熱くした。

 直営店では良いパンは売れ、そうでないパンは売れ残る。客の反応を肌身で感じながら、パン職人は腕を磨く。

 リョーユーパンの主力は、「マンハッタン」に代表される袋パンだ。だが恵良は直営店があるからこそ技術が向上し、会社が地域に根ざすと信じている。

 「直営店は、本体を支える駆逐艦だ」

 その後も直営店は着実に増えた。平成29年、95店になった。香港やベトナムで技術協力もする。

 中島は今、直営店の振興と後進育成に力を注ぐ。

 「まだまだ勉強することはたくさんある。おいしいパンを将来の人に残したい」。冬の時代を乗り越え、パン窯は再び熱を帯びる。 (敬称略)

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