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【今こそ知りたい幕末明治】(3)兵糧と弾薬から見た戊辰戦争(下)~小松の縁~

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【今こそ知りたい幕末明治】
(3)兵糧と弾薬から見た戊辰戦争(下)~小松の縁~

戊辰戦争の影の功労者、薩摩藩士・高島六三の墓碑銘(寺村安道氏教示) 戊辰戦争の影の功労者、薩摩藩士・高島六三の墓碑銘(寺村安道氏教示)

 □原口泉氏

 前回、幕末・維新期の薩摩兵を支えた兵糧米について書いた。薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)が、五摂家筆頭の近衛家から拝借した屋敷「御花畑」に、精米用の水車があった。そして軍隊にとって兵糧と並んで重要な弾薬は、もう一つの「小松」に縁があった。

 二本松薩摩藩邸(現京都市上京区)から西へ約3キロ。山城国葛野郡小松原村に薩摩藩調練兵場があった。場内にあった弾薬庫のおかげで薩摩藩は鳥羽・伏見の戦で圧勝したといえる。

 この小松原の地名は、源平の昔、平重盛の屋敷があったことに由来する。重盛は「小松の内大臣」とも呼ばれた。一方、御花畑に住んでいた小松帯刀の先祖も重盛とされている。薩摩琵琶の名手である帯刀は、御花畑邸で名曲「小松の操」を弾いていたかもしれない。

 それはともかく、弾薬はいかに調達したのだろうか。

 第11代藩主・島津斉彬は近代化を目指した集成館事業で、起爆薬として使われる雷粉(雷酸水銀)の精製に成功した。精製過程で使われたのが芋焼酎だった。鹿児島特産の芋焼酎は、軍事産業の副産物として広がったといえる。

 さらに斉彬は滝之上火薬製造所を拡大した。文久3年には国分郷敷根に火薬製造工場ができた。イギリス式黒色火薬を年間約24トン生産できる、わが国最大級の工場だった。翌年、西郷隆盛の弟・吉二郎が銃薬製造係となった。

 ここで造られた弾薬が京都へ運ばれ、小松原村弾薬庫に隠されていた。

 弾薬庫の大目付役が高島六三(1836~1910)である。西郷がもっとも目をかけた高島鞆之助(大阪鎮台司令長官、陸軍大臣など歴任)のいとこである。

 『小松原附近郷土史』(高島健三著)によれば、六三も戊辰戦争を西郷指揮の下で戦った。鳥羽・伏見の戦で、苦心して弾薬を戦線に送り、戦況を有利に導いたのは六三の手柄である。

 六三は、慶応3年11月20日、島津久光に従い入洛した。

 六三は砲術掛作事(がかりさくじ)目付、ならびに小松原の調練場取締りを任された。六三は調練場に稲荷(いなり)大神を歓請している。稲荷神は島津氏の守り神である。小松帯刀の御花畑にも祀(まつ)られていた。

 小松原村調練場は1万6千坪余あり、陣屋、休息所、勤番所、弾薬庫があった。これらは古材木で建築されている。

 実は小松は、御花畑を借り受けた後、改修に取り組んだ。藩士居住の長屋、漬物小屋など台所関係も増築した。京都府行政文書によると、長屋だけで162坪もあった。御花畑は近衛家の雅な屋敷から、薩摩の準藩邸と化していることが読み取れる。

 この改修工事で出た材木を、小松原の調練場で利用したであろう。島津久光も西郷隆盛らを従えて調練を謁見した。

 剽悍(ひょうかん)無双といわれた六三は、大目付役として連日藩士の銃砲調練を監督した。

 慶応3年9月には間近に迫った倒幕挙兵のため、連日、軍事調練を行った。その様子は熾烈(しれつ)を極め、京都人の心胆を潰している。

 六三が士気を鼓舞するために、「ピーヒョロロ」との西洋音楽を奏でたと伝わる。これは京都の山国隊が使った音楽だという。山国隊は、京都の三大祭の一つである「時代祭」で、行列の先頭を行く。

 幕府側も六三らが守る弾薬庫の存在には気付いていた。

 鳥羽・伏見の戦の前、佐幕派はしばしば、弾薬庫の爆破を計画した。六三は夜陰に乗じ、少しずつ火薬庫から弾薬を取り出して、近くの庄屋、桂甚五郎の土蔵に隠した。戦いが始まると土蔵から肥桶に火薬を詰め戦線に送った。

 六三は、維新陰の功労者であった。京都で山陰道鎮撫(ちんぶ)総督の西園寺公望とも親交があった。西園寺に初めて牛肉を奨めたともいう。また、住居としていた勤番所は西郷もよく泊まっており、このため西南戦争時は、西郷と通じないように六三は京都の座敷牢に拘束された。

 いずれにせよ薩摩藩は、戊辰戦争に挙藩体制で臨み、新政府軍に最大の兵力を送った。その総合兵力は銃砲隊総計42小隊、砲隊6隊、軍艦2隻であった。一小隊兵員数は百人前後だから、戦兵合計4500人、士分以下含めると約6千人が動員された。

 その兵力を支えたのは、薩摩藩が蓄えた米と弾薬の力であった。武器弾薬と兵糧、兵員を送る蒸気船の機動力も諸藩中第一であった。

 緒戦に勝利しても、兵站がその後の勝敗を左右することを、先の大戦も教えている。

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【プロフィル】原口泉

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。