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【九州の礎を築いた群像】霧島酒造編(2)黒キリ日本一

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【九州の礎を築いた群像】
霧島酒造編(2)黒キリ日本一

のぼりを立てて「黒霧島」を宣伝する「黒キリ隊」 のぼりを立てて「黒霧島」を宣伝する「黒キリ隊」

 ■「夢は形にするためにある」田舎企業の一点突破作戦

 霧島酒造は平成10年6月、黒麹(こうじ)を使った芋焼酎「黒霧島」を発売した。3代目社長の江夏順行(よりゆき)(70)は当初、様子見のつもりだった。販売エリアも宮崎県に限定した。

 社内の雰囲気も冷ややかだった。

 「年間販売量は、よくて200~300石(1石は一升瓶100本分)ぐらいか…。『霧島』には到底及ばないだろう」

 焼酎メーカーは、「石(こく)」という昔ながらの単位を使う。予想とはいえ200石~300石は、主力焼酎「霧島」の販売量7万5千石に比べ、はるかに少ない。

 芋焼酎「日向木挽(ひゅうがこびき)」の雲海酒造(宮崎市)など、宮崎県内には、手ごわいライバルがいる。霧島酒造はじわじわと攻められていた。

 ライバルを食い止める武器の一つになればよい。黒キリへの期待はその程度だった。「当たれば儲(もう)けもの」。大半の社員の本音だった。

 それがヒットした。

 「ビールは飲めないけれど、なぜか黒キリの水割りは飲めるのよね」

 地元・都城市内のスナックのママが、こぞって黒キリ派になったのだった。スナックだけでなく、飲食店の女性客も同じ声を上げた。社長の順行にとっても意外だった。

 霧島酒造はもともと、焼酎好きの“おっちゃん”に黒キリを売り込むつもりだった。だからこそ「質実剛健」というイメージを呼び起こす「黒」という名称を付けた。

 だが、黒キリは「芋焼酎は芋臭い」という「常識」を覆した。くせのない上品な香りが、おっちゃんよりも若い女性にうけた。

 初年度、予想の5倍となる1500石が売れた。この成功で、営業部門は乗り気になった。

 11年5月に全国販売を始めた。紙パック製品も投入した。

 順行は13年、勝負に出た。

 「今年は黒キリを戦略商品にする。やるからにはナンバーワンだ。まず、黒の芋焼酎の中で1位になろう」

 年頭所感でこうぶち上げた。“攻撃目標”を福岡に定めた。「2年間で、福岡都市圏の売り上げを倍増させる」。本格的な福岡作戦の開始だった。

 父であり、2代目社長の順吉(1915~1996)が抱いた「東京でおいしい焼酎を売る」という夢への第一歩でもあった。

 九州最大の都市である福岡市は、九州一の酒販激戦区だ。九州内のさまざまな焼酎に加え、伏見や灘、広島などの日本酒が、しのぎを削っていた。

 それだけ新参者が入り込む余地があった。しかも、全国企業の支店・支社が多い。

 「転勤や出張で福岡に来た社員や家族が黒キリファンになれば、東京や大阪に戻ったときに口コミで評判を広げてくれる」

 順行はこう考えた。

 福岡都市圏を攻略した上で、広島市など、同じ規模の都市に進出する。こうしてできた「点」を、「面」に広げようと狙った。

 かつて順吉が「霧島」を宮崎県に広げたとき、まず宮崎市内で集中的に販売し、それをテコに県全域に広げた。この前例を、大規模にやろうという作戦だった。

 「一点突破、全面展開だ」。順行は社内にハッパをかけた。

 弟の専務、拓三(67)が作戦を練り上げた。拓三は黒キリの生みの親だ。福岡作戦の基本方針は「知ってもらう」「飲んでもらう」「客に届ける態勢作り」だった。

 拓三と順行は、広告宣伝などの販売促進費を、すべて黒キリに投入すると決めた。

 「トロッと、キリッと、黒霧島」。このテレビCMは12年から福岡でも流していたが、その本数を増やした。

 とろりとした甘み、すっきりした後味という黒キリの特長を、端的に伝えるCMだからだ。

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 メディアを使った「空中戦」に加え、「地上戦」も始まった。

 営業担当の社員が、福岡県内の酒販店を電話帳で片っ端から調べて、訪問した。スーパーやコンビニエンスストアも含め、その数約6千軒。一升瓶を1本ずつ置いてもらった。

 福岡支店に、宮崎などの他支店からも社員が交代で派遣された。数人ずつの「黒キリ隊」を結成し、地域の夏祭りなどに出向いた。試飲イベントを開くためだった。

 「夢は形にするものだ。たとえ片田舎の会社だといわれようが、必ずナンバーワンになれる」。拓三は社員を鼓舞した。

 実は拓三ら霧島酒造の社員は「黒キリは鹿児島の焼酎ですよね?」「霧島さんって鹿児島の会社じゃないんですか?」と言われることが、しばしばあった。

 その度に知名度不足を嘆き、悔しい思いをした。その悔しさをバネに、街頭活動に力を入れた。

 早朝の通勤時間を狙い、福岡の繁華街、天神や博多駅前で100ミリリットル入りパックのサンプルを毎日500~1千本配った。

 職場で話題に上れば、「帰りの一杯」に黒キリを選んでもらえるかもしれない。そんな作戦だった。

 最終的に10万本のサンプルを配布した。

 会社訪問につなげようと、サンプルにアンケート用紙を付けた。アンケートの返信があれば、営業社員が200ミリリットル入りパック30本を持って、回答者の会社に届けた。

 宮崎県出身者の名簿を元に、九州電力など福岡の大企業を訪問した。ビルの上から下まですべての部署を回り、一升瓶だけでなく原料のサツマイモを配った。選挙顔負けの、どぶ板戦術だった。

 「霧島酒造ってすごいな」「黒キリもうまいよ」

 福岡で黒キリの評判が高まった。そんな14年10月19日、大ヒットの引き金となる出来事があった。

 日本テレビ系のバラエティー番組だった。お笑い芸人のナインティナインの矢部浩之が、自分好みの焼酎を探すという企画だった。

 都内の居酒屋で麦や芋、米などの焼酎を味見した。そして黒霧島に、矢部は「うまい!」と目を丸くした。スタジオで相方の岡村隆史も絶賛した。

 放映翌日から、霧島酒造の電話は鳴りっぱなしだった。わずか3日間で、1カ月分の注文が入った。

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 14年度の黒キリ販売数量は4万石を上回った。メディアを使った「空中戦」と、足で稼ぐ「地上戦」の成果だった。

 もくろみ通り、黒キリは福岡都市圏から燎原の火のごとく、九州を席巻した。広島、仙台にも進出した。

 全国的に第3次焼酎ブームが到来した。牽引(けんいん)役は間違いなく、黒キリだった。

 霧島酒造は、首都圏でも「福岡作戦」と同様の営業活動を展開した。黒キリの出荷先に占める首都圏の比率は、13年はわずか1%だった。徐々に市場拡大が進み、23年は10%に達した。

 そして24年、霧島酒造は全国の焼酎メーカーで売上高トップに躍り出た。販売先は九州40%、西日本31%、東日本29%。名実ともに全国区企業になった。「黒キリ=鹿児島」と間違われることも減った。

 順行は、社長室に設けた神棚に一人、手を合わせた。

 「霧島がはぐくんだ歴史や文化のおかげで、ここまでこられました。これからも日本古来の蒸留酒をしっかり造ります。日本をときめかせ、幸せな生活をつくる酒を造ります」

 脳裏に英国の歴史家、トーマス・カーライルの言葉が浮かんだ。「逆境に耐えうる人間は数多くいよう。されど、順境に耐えうる人間は何人いようか」

 順行は「一番良いときが、実は一番危ない。浮かれて、ふやけてはいけない。飽きられたら終わりだ」と自身に言い聞かせた。

 弟の拓三も同じ思いだった。平成25年の新年会で、拓三は社員にこう諭した。

 「私たちが日本一になったのは、皆さんだけがやったのではない。まずはお客さまがあってこそ。そして、約32京個(京は1兆の1万倍)もの酵母菌が、夜も寝ずに頑張ってくれたおかげだ、というのを決して忘れてはいけません」

 そして、こう結んだ。

 「ナンバーワンになっても謙虚にしておごらず。そして、突き抜けるほどに売上高を伸ばさなければダメだ」

 順行と拓三は「東京五輪がある(平成32年)ころに売上高1千億円」という目標に向け、走り出した。 (敬称略)