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【九州の礎を築いた群像】辛子めんたいこ編(1)めんべい

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【九州の礎を築いた群像】
辛子めんたいこ編(1)めんべい

人気商品に育った「めんべい」=山口油屋福太郎の本社売店(福岡市南区) 人気商品に育った「めんべい」=山口油屋福太郎の本社売店(福岡市南区)

 ■「失敗を考えたら何も始まらない」 似たもの夫婦、直談判で難関突破

 一日あたり35万人が乗降する博多駅。九州最大のターミナル駅内の店舗には、数え切れないほど多くの土産物が並ぶ。この土産物の最激戦地で、辛子明太子風味の煎餅「めんべい」は、買い物客が選ぶ贈答用土産品の人気トップに立つ。

 山口油屋福太郎(福岡市南区)の経営者夫婦は、奮闘し、21世紀の初年、この商品を世に送り出した。

 「お言葉ですが、土産の菓子といえば甘い物ですよ。辛い明太子を使った商品なんて、売れませんよ」

 平成12年秋、福太郎の専務、山口勝子(74)は四面楚歌に陥っていた。

 明太子を使った新たな土産物を作ろうと社内に提案したところ、反対の嵐に遭ったのだ。

 福太郎は社名通り、食用油の販売から始まり、卸業者として食品を手広く取り扱う。明太子の生産販売に本格参入したのは昭和48年と後発ながらも、販売は順調だった。

 だが、勝子の目には明太子の危うさが映っていた。

 平成9年の消費税増税で日本は深刻なデフレ不況に陥った。「ITバブル」も、弾けていた。

 明太子の稼ぎ頭は、高級贈答用だった。デフレ不況が続けば、企業は交際費を真っ先に削る。行く末には暗雲が立ち込めていた。

 「今、何か手を打たないといけない。明太子を使って、軽く、安く、扱いやすいお土産ができればヒットは間違いない」

 勝子の脳内には、商品のイメージもできていた。明太子の辛さと塩味を生かした煎餅だ。

 「やりたいなら、やってみればいい」

 勝子の背中を、夫で社長の山口毅(80)が押した。毅は勝子と結婚してサラリーマンを辞め、山口家に入った。経営者として挑戦の連続であり、勝子の危機感も共有できた。

 とはいえ、未知の領域だ。何をすべきか分かる社員は、一人もいなかった。

 「言い出しっぺの私が作るしかない」。勝子は自宅の台所を「開発室」にし、試作を始めた。

 小麦粉や米粉など、さまざまな原料に明太子を混ぜ、コンロで焼いた。

 まずかった。

 ある日、一人の女性社員がエビ煎餅を持ってきた。

 「専務。私の好きな煎餅です。明太子味も合いそうな気がしませんか」

 勝子が求めている味に近かった。包装紙に愛知県の業者の名前が記されていた。勝子は約束もいれず、愛知に向かった。

 「明太子を使った煎餅を作りたいのですが、なかなか上手にいきません。手助けしてもらえませんか?」

 勝子は工場長に頼み込んだ。その熱意に押されたのか、工場長は原料や醤油(しょうゆ)ダレを使った味付け方法などを伝えた。

 勝子は福岡に戻った。アドバイスを基に、国産ジャガイモの澱粉(でんぷん)をベースに、明太子やイカ、タコを混ぜて焼き上げ、タレを効かせた。納得いく味ができた。社内提案から10カ月ほどがたっていた。

 「味はこれで良い。あとは商品名だわ」

 「めんたいせんべい」だと長すぎる。4文字前後で、味がイメージできる名前にしたかった。社内からアイデアを募った。

 「『チョベリグ』みたいなのどうですか?」

 入社1年目の社員が提案した。「超・ベリー・グッド」を略して「チョベリグ」。8年に流行語大賞を獲った言葉だった。

 「『めんたいせんべい』を略して『めんべい』。これしかない!」

 13年春、「めんべい」発売に向け、勝子は中古の煎餅製作機を購入した。

 「専務の道楽で60万の機械を買ったって本当か?」

 こんなヒソヒソ話も社内に飛び交った。勝子は気にもとめなかった。

 しかし、売れなかった。

                 × × ×

 「新商品のめんべいです。お土産物屋のスペースに置いてください」。勝子は、なじみの業者に話を持ちかけた。

 「専務さん、せっかくですが…。煎餅は明太子じゃないですからねぇ」

 断られた。無理もない。土産物店では、限られた販売スペースを、多種多様な商品が奪い合う。

 納入業者は、客が手を伸ばすよいスペースを求めて交渉する。一方、販売側はヒット商品を多く置くことで、売り上げを伸ばしたい。何の実績もない「めんべい」に割くスペースはなかった。

 月の売り上げは数千円だった。「道楽」となじられても仕方ない。

 それでも勝子は、「足りないのは知名度だけだ」と確信していた。全国の新聞社やテレビ局、出版社などに商品サンプルを送った。

 「明太子を使った今までにない煎餅です。召し上がっていただいて、よろしかったら紹介してください」

 直筆の手紙も添えた。送り先は1千を超えた。

 手紙作戦は効果的だった。さまざまな媒体で紹介され、注文が入るようになった。売上高も月数千円から数万円、そして数十万円となった。

 発売から4年がたつころ、勝子はめんべいの増産を考えた。

 製造機器への投資は1億円程度と見込まれた。年間売上高が100億円程度の福太郎にとって、決して安い買い物ではない。

 社内に反対の大合唱が起きた。

 しかし、勝子は揺るがない。幼少時に聞かされた苦労話を思い出していた。

 福太郎は祖父の源一(1878~1943)が明治42年に創業した。大正12年、菜種原油の暴落が源一を襲う。数百万円もの膨大な借金を抱えた。現在であれば数億円に相当する負債を前に、祖父母や父の重氏(しげうじ)(1910~2006)は金策に追われた。解決するまでの間、自殺すら頭によぎったという。

 祖父や父の苦しみに比べれば何てことはない-。「失敗を考えていたら始まらない。失敗しても殺されるわけじゃない。やらせてほしい」

 勝子は毅に訴えた。毅も異論はなかった。

 平成17年12月、福岡県添田町の英彦山工場で、めんべい製造機が稼働した。

 生産能力は20倍になった。売り先を確保しようと、郵便局に飛び込み営業をした。めんべいのチラシを郵便局に置き、売れればマージンを支払う。郵便局にとってリスクゼロの仕組みだ。

 めんべいの注文量は右肩上がりだった。

                 × × ×

 「澱粉が足りません! このままだと生産に支障が出ます」

 英彦山工場の工場長、浦田隆(62)は22年9月、悲痛な声で毅に訴えた。

 夏、記録的な猛暑が、ジャガイモの産地である北海道を襲った。ジャガイモは暑さに弱い。大不作が予想された。

 ジャガイモ澱粉の価格が高騰した。毅と浦田は代替品も試したが、うまくいかない。東京や大阪の商社から、高値でかき集めた。

 「めんべいを売れば売るほど、赤字を垂れ流してしまう」

 毅は焦った。

 年が明けた23年2月。毅はいつものように寝室で深夜ラジオを聞いていた。

 《北海道小清水町で地元の若者が、たたみ一畳分のデンプン団子を作り、ギネス記録に認定されました》

 「ないというが、ある所にはあるじゃないか!」

 毅はもどかしい思いで夜明けを待ち、小清水町の農協に電話した。

 だが、反応は思わしくなかった。国産のジャガイモ澱粉のほとんどは、JA全農(全国農業協同組合連合会)が一括して販売していた。個別農協が直接販売する例はなかった。

 組合長の佐藤正昭(68)は「お気持ちは分かりますが、流通の仕組み上、ご希望にはお応えできません。申し訳ないです」と説明した。

 それでも毅は、諦めなかった。行動力で勝子には負けない。単身、北海道へ飛んだ。

 「まさか本当にいらっしゃるなんて。それに福岡からとは…」。佐藤は驚いた。福岡から小清水町まで、直線距離で約1700キロある。断られた上で、小清水町にやってきた業者は毅が初めてだった。

 「この男となら話ができるかもしれない」。こう考えた佐藤は「こちらからも話したいことがある。町長と会ってくれませんか」と切り出した。

 佐藤は、町長の林直樹(71)に連絡した。

 「福岡から食品会社の社長がわざわざ来ている。企業誘致につながるかもしれない。同席してほしい」

 3人は翌日、隣町の弟子屈(てしかが)町にある川湯温泉の宿で対談した。

 「来年から澱粉を優先的にお渡しできるように、全農に働きかけます」

 その代わり-。佐藤と林は逆提案した。

 「町に工場をつくっていただけませんか?」

 小清水町は、産業や人口の流出に悩んでいた。企業誘致は大きな課題だった。毅の訪問は、またとない好機に映った。

 毅にとっても渡りに船だった。

 めんべいの販売は好調で、工場新設の検討を始めていた。北海道は澱粉の供給地だ。その他の原料であるてんさい糖やイカも調達できる。進出先として申し分ない。

 「役員会で反対に遭うかもしれませんが、私はここに工場を建てますよ」

 毅は即答した。

 2カ月後、毅は廃校になっていた2つの小学校の購入契約を結んだ。

 25年7月、その一つ、北陽小学校の内部を改修した工場が稼働した。

 工場長は浦田だった。

 英彦山工場での生産はもちろん、販売にも精通している。自他ともに認める適任者だった。

 浦田は地元に溶け込もうと、積極的に地域行事に顔を出した。

 何より、地域のシンボルだった小学校を取り壊さずに再生したことが、町民の心を打った。

 福太郎は、福岡から進出した「お客さん」から、いつしか「おらが町の工場」となった。

 毅は繰り返す。「町に若い家族が住み、人口が増えてにぎやかになるように努力する」

 月数千円から始まった「めんべい」の売上高は、年20億円前後に達した。福太郎という一企業だけでなく、過疎に悩む地域を元気付ける商品に育った。

                   ◇

 福岡を代表する味「辛子明太子」は、どのように誕生し、進化したのか。「明太子」に関わった多くの企業の群像劇を描く。