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【日本の源流を訪ねて】本河内高部堰堤(長崎市) 近代水道を切り開くアースダム

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【日本の源流を訪ねて】
本河内高部堰堤(長崎市) 近代水道を切り開くアースダム

国内で初めて建設された本河内高部堰堤。今も長崎市民に生活用水を供給している 国内で初めて建設された本河内高部堰堤。今も長崎市民に生活用水を供給している

 長崎市中心部を流れる中島川には、いくつものアーチ型石橋が架かる。市庁舎から3キロほど上流に向かうと、川の中央に長さ127メートル、高さ18メートルの台形状の盛り土が姿を現す。わが国最初の上水道用のアースダム(土堰堤(どえんてい))だ。

 本河内高部(ほんごうちこうぶ)堰堤は、明治24(1891)年3月に完成した。堤本体は土や粘土を締め固めた。貯水側は石張りで、下流側は芝生で覆われ、中央部の管理用の階段は石造りで美しい。川岸には浄水場がある。

 長崎港は江戸時代の安政6(1859)年、日米修好通商条約の締結により、世界各国との交易が始まった。大浦地区には外国人居留地が建設された。

 西洋の文物・文化とともに、伝染病も流入する。明治18年、居留地付近からコレラが広がり、長崎区内で617人が亡くなった。コレラは猛威を振るい、翌年までに全国で約10万人が死亡した。

 長崎は海岸を埋め立てて、街が広がった。井戸水は海水を多く含んでいた。そのため江戸時代初期、丸太をくりぬいた水道「倉田水樋(すいひ)」が、街の中心部に巡らされていた。

 この水道施設も幕末になると老朽化が進んだ。飲料水は汚れており、それが疫病の一因とも指摘された。居留地の外国人からは、水道施設の近代化を求める声が高まった。

 明治19年、長崎県令(知事)に着任した日下(くさか)義雄は同年、長崎区長(市長)に就任した金井俊行とともに、近代水道施設の整備を計画した。設計・指揮を担わせようと、工部大学校(現東京大工学部)助教授だった吉村長策を長崎県技師に招いた。

 ところが、住民から激しい反対運動が起きる。

 巨額な建設費が想定され、増税への不安を抱いたからだった。吉村が計算した建設費は30万円だった。当時の長崎区の年間予算の7・5倍にも達した。

 日下と金井は反対住民を根気強く説得した。合わせて、工事費の捻出にも知恵を絞った。

 6万円を貿易商人の積立金から、5万円を日本初の国による補助金として手当てできる算段になった。残る19万円も、これまた日本初の地方債で捻出することになった。

 吉村が設計したダムは、22年4月に着工された。2年の工事期間を経て、貯水池と浄水場が完成した。

 大きな土手と、満々と水をたたえた人造湖-。県外からも見学者が殺到した。休日には混雑整理のため入場券が発行され、この地を歌に詠むこともはやったという。

 だが、長崎市内の水不足は続いた。市の人口は完成時(明治24年)の6万人から10年後には14万人に増えたからだ。さらに27(1894)年に勃発した日清戦争で、長崎港に兵士が集まり、水需要は増加した。

 36年、本河内高部堰堤から1キロ離れた下流に、国内で2番目となるコンクリート造りのダム(本河内底部ダム)も造られた。

 両ダムを設計した吉村は「近代水道の父」として、大阪、広島、神戸、岡山各都市などに招かれ、水道計画に関わった。(奥原慎平)