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【淡路島のナゾ】後から大手門建造? 軍事用でない洲本城の勘七郭

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【淡路島のナゾ】
後から大手門建造? 軍事用でない洲本城の勘七郭

勘七郭(現馬屋)に列になって埋まっている列石。「恒」の文字が彫られている=洲本城 勘七郭(現馬屋)に列になって埋まっている列石。「恒」の文字が彫られている=洲本城

 洲本城の大手門から細長く南に突き出す「勘七郭(かんしちくるわ)」と呼ばれる一角がある。現在「馬屋」「月見台」と呼ばれるこの場所が、今回のナゾの舞台だ。戦国時代に本格的に築城された洲本城だが、勘七郭は軍事施設だった形跡がなく、なぜか廃城となった江戸期に大手門が造られたらしい。さらにそこには文字が刻まれた「列石(れっせき)」が埋まっている。

 洲本市山手の市立淡路文化史料館で、市文化財審議委員の岡本稔さん(88)による「洲本城勘七郭の謎」という歴史講座が開催された。岡本さんによると、洲本城が築城された初期、戦国時代の脇坂安治のころの「城絵図」には勘七郭は描かれているが、大手門はない。当時の家臣で軍使、佐野勘七の屋敷があり、「勘七郭」がついたと考えられる。「郭」とは城の一区画のことで、江戸期には「二の丸」のように「丸」で呼ばれた。

 ところが、江戸期になると勘七郭の横の石垣が途切れ、「大手門」と書かれた絵図が登場する。岡本さんによると、大手門とは城の正面玄関のようなものだが、そこに至る道は描かれていない。また江戸期には洲本城は廃城となり、改築などすれば幕府から軍事的意図があると見なされておとがめを受ける可能性があり、新たに門や道を造ることは考えにくいという。

 平成17、18年に洲本市教委が行った勘七郭周辺の石垣修復の際、木塀を支える控え柱の柱穴3個が見つかった。城郭の塀は火矢で射掛けられても燃えないように瓦ぶきの土塀が常識。勘七郭の周りすべてが木塀だったかどうかは不明だが、木の塀とすると軍事的に強固な砦(とりで)ではなかったことになる。関ケ原の合戦のあと大坂の陣まで豊臣方、徳川方いずれの大名も決戦にそなえて城を改築して守りを固めた。洲本城も本丸周辺を中心に大改築を行ったが、勘七郭に土塀を巡らさなかった理由はいまも分かっていない。

 長く洲本城を研究する岡本さんが「ビックリした」と話すのが列石だ。勘七郭に約8メートルにわたって数個の石が列になって埋まっている。これまで詳しく調査されたことはないが、平成17年4月、岡本さんは石に文字が刻まれているのを発見した。数行の銘文は薄れているが、拓本で「恒」の文字が読み取れた。

 供物を盛るような石もあることから、岡本さんは倒れた供養塔の可能性を指摘する。国史跡の洲本城は文部科学省の許可なしに発掘調査ができないため、露出している部分から推察するしかないが、「朝鮮の役で亡くなった武将の供養かもしれない。海が見える場所で水軍の将に海を見せてやろうとしたのかも。現在の月見台という名前から(月を拝む)月待供養も考えられるが、仏像でもなくぴったり解釈があてはまらない」と話す。

 戦いのための城にありながら砦の役目を果たしておらず、平和な時代になって正面玄関にあたる大手門が作られ、さらに供養塔のような列石が埋まる勘七郭。岡本さんは「やがて新たな資料が出て何か分かるだろうが、楽しみであるような…」。ナゾをナゾとして推理するのも楽しみかもしれない。