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【日本の源流を訪ねて】旧グラバー住宅(長崎市) 日本と西洋の橋渡し役の世界遺産

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【日本の源流を訪ねて】
旧グラバー住宅(長崎市) 日本と西洋の橋渡し役の世界遺産

 眼下に長崎の港が広がる。グラバー園には幕末から明治に建てられた9棟の木造洋館がある。園内は年間を通して色とりどりの花が咲き、家族連れや観光客が散策する。

 園の西端にある「旧グラバー住宅」は文久3(1863)年に完成した。現存する日本最古の木造洋風建築だ。英国人技師が設計し、大浦天主堂などを建設した熊本・天草出身の小山秀之進が棟梁を務めたという。

 平屋で、上から見るとL字型になっている。屋根が建物全体を覆い、ひさしが大きく張り出す、当時欧米で流行した「バンガロー風様式」の建物だ。

 安政6(1859)年、鎖国が終わり、長崎港はそれまでのオランダ、清国だけでなく、世界に開かれる貿易港となった。グラバー園のある大浦地区に、外国人居住地が整備され、多くの外国人貿易商がやってきた。

 スコットランド出身の貿易商、トーマス・グラバー(1838~1911)もその一人だった。

 グラバーは23歳の若さで長崎に「グラバー商会」を設立した。茶や生糸、コンブなどの輸出に力を入れたが、先輩商人の壁は厚く、大きな成功には至らなかった。

 それでも、薩摩や長州を代表とする「西南雄藩」との結びつきを深めた。やがてこうした雄藩向けに武器や艦船を取り扱うようになり、維新直前の1860年代半ばには、長崎における外国商館の最大手となった。

 グラバーは数多くの若者の海外渡航も手助けした。

 文久3(1863)年、後に初代首相となった伊藤博文や、同じく初代外務相の井上馨ら、長州藩の若者5人の英国渡航を斡旋したといわれる。5人は「長州五傑」と呼ばれた。

 当時、幕府や各藩が購入した中古船は、故障が絶えなかった。

 グラバーは薩摩藩の五代友厚らと日本初の洋式ドックの建設を計画した。スコットランドから蒸気機関を動力とする巻き上げ式装置を輸入し、明治元(1868)年、居宅から1キロ南に離れた小菅修船場を整備した。翌年、政府に売り渡した。

 だが維新後、武器弾薬を取り扱っていたグラバー商会の業績は悪化した。戊辰戦争が終わったこともあって、投資回収がうまくいかず、グラバー商会は明治3年に倒産した。

 グラバーは資料や日記などを残さず、仕事や業績について不明な部分も多い。それでも長崎沖の高島炭坑の開発にも協力し、三菱グループの事業拡大にも貢献したとみられる。会社をつぶした後も、高島炭坑を買収した三菱の顧問として生涯、日本にとどまった。

 グラバーは国産ビールの育ての親としても知られる。

 日本の財界人らに呼びかけ、明治18年、米国人技師による横浜のビール醸造所を買い取った。この醸造所は麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)につながっていく。

 グラバー住宅は、息子の倉場富三郎が住み、昭和14年、三菱重工業長崎造船所に売却した。長崎造船所を見下ろす高台にあるため、建造中の戦艦武蔵を隠す目的だったとされる。昭和32年、長崎市に寄贈され、36年には国の重要文化財に指定された。

 昨年7月、旧グラバー住宅は「明治日本の産業革命遺産」の構成施設として、世界文化遺産となった。平成27年の入園者は122万人と、前年に比べ2割増えた。

 グラバー園の学芸員、横山精士氏(46)は「世界遺産登録を、日本と西洋の橋渡し役を担ったグラバーに思いをはせるきっかけにしたい」と語った。(奥原慎平)=毎週火曜日掲載

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 ■旧グラバー住宅

 長崎市南山手町8の1。午前8時~午後6時開園。年中無休。入園料は大人610円、高校生300円、小・中学生180円。問い合わせはグラバー園管理事務所(電)095・822・8223。