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【歴史のささやき】志學館大教授・原口泉氏 薩長同盟の地、御花畑「発見」

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【歴史のささやき】
志學館大教授・原口泉氏 薩長同盟の地、御花畑「発見」

「御花畑」について記した京都府行政文書(京都府立総合資料館所蔵) 「御花畑」について記した京都府行政文書(京都府立総合資料館所蔵)

 薩長同盟締結の地、近衛家の別邸「御花畑(おはなばたけ)」はどこにあったのか-。歴史小説作家の桐野作人氏らの研究により京都の室町頭(むろまちかしら)とされながら正確な場所は特定されていなかった。ところが昨年、西郷隆盛研究家の原田良子氏から、現在の「室町頭町」ではなく、「森之木町」(上京区)のことであると聞いた。

 薩長同盟はかつて、二本松薩摩藩邸(現在の同志社大学の一部、上京区)で結ばれたと考えられていた。私は薩摩藩家老だった小松帯刀の京都邸と考え、『龍馬を超えた男 小松帯刀』(平成20年)にそのことを記した。根拠は『松菊 木戸公伝』(昭和2年)に「帯刀の寓居に会合」とあるからだ。

 そして当時、御花畑は薩摩藩が借用し、小松が居住していた。つまり、「御花畑=小松邸」だった。ちなみに島津家と、五摂家筆頭の近衛家は縁戚関係にあった。

 拙著を読まれた原田氏は、当時の室町通の一番端(鞍馬口通)が室町頭であり、「御花畑」は「森之木町」にあったと想定された。独自に調査を続けた結果、ついに京都府立総合資料館所蔵の文書の中から、森之木町に近衛家所有地があったことを示す資料を発見された。

 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」で現在開催中の企画展「幕末薩摩外交」で初公開された「近衛家別邸御花畑絵図」でも森之木町が確認された。企画展を担当された町田剛士主査も、御花畑が近衛家の別邸であり、元治元(1864)年に朝廷警護の任についていた島津久治(島津久光の次男)の宿所であったことに言及されている。

 京都府行政文書には、「北(鞍馬口通)間口四拾八間六寸、西(室町通)奥行三拾三間三尺三寸(他、惣地坪、瓦平家建、瓦住居二階建、社など記載)」とある。一方、企画展の絵図にも北に「鞍馬口通小山町」、西に「室町通森之木町」とあり、庭園には稲荷社(島津家は稲荷信仰)や水路があり、京都の古地図にある御用水路とほぼ同じ形状である。

 ところで、小松が薩摩藩の首席家老であったことを考えれば「御花畑」は准藩邸として機能していたといえる。

 木戸孝允らが御花畑に会合後、危険を冒して二本松藩邸に行かなかったとしても、御花畑が准藩邸であれば納得できる。

 二本松薩摩藩邸と小松邸は、明治元年の戊辰戦争の終結とともに引き払われることになった。御花畑水車は引き移すようにと、西郷隆盛が指示している。(昭和10年の『大西郷全集』第2巻)

 明治4年の邸宅図に水車がないのは、西郷の指示通りに移されたからであろう。もし御花畑が小松の私邸であれば、水車移設までを西郷が指示しただろうか。御花畑はやはり、准薩摩藩邸であったのだろう。

 元治元年には、串木野郷士野本良図は「殊の外結構なる御座敷」と記している。二本松藩邸の規模に比べても「御花畑」は遜色はなかった。

 島津久光は慶応3年4月24日に御花畑を訪れた。その3日後の27日、小松は8人を引き連れ、京都の豪商三井家を訪問した。三井家が幕府から新政府へ鞍替えする契機と考えられるだろう。

 「御花畑」は洛中・洛外の境に位置している。岩倉具視の隠棲している岩倉村には約4キロ、大久保利通の居宅へは約2キロで、幕吏の目をくぐりながら、薩摩藩は情報収集に腐心していたのであろう。小松はその中心にいた。

 ところで、京都の竹で作ったと思われる天吹(鹿児島伝統の竹笛)が鹿児島県日置市にある。天吹には「元治二年 閏 五月二十五日、京都御花畑にて之を造る、寺前氏」とある。小松は薩摩琵琶の名手であり、天吹と薩摩琵琶の音色が小松を慰めたであろう。薩長同盟を祝い「御花畑」では、薩摩琵琶の名手、児玉天南が「敦盛」を演奏したという。

 薩長同盟が結ばれたのは、慶応2(1866)年1月21日。それから150周年に、締結の地「御花畑」が確定したことは、喜ばしいことである。

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【プロフィル】原口泉

 昭和22年鹿児島市生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10年から23年まで教授を務め、17~21年は同大生涯学習教育研究センター長を兼務した。23年4月に志學館大人間関係学部教授に就任、24年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史で「龍馬を超えた男小松帯刀」(PHP文庫)など著書も多数。「篤姫」「あさが来た」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。