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【九州の礎を築いた群像 ハウステンボス編】(8)創業

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【九州の礎を築いた群像 ハウステンボス編】
(8)創業

針尾島の荒れ地に、「本物」のオランダを作り上げたハウステンボス 針尾島の荒れ地に、「本物」のオランダを作り上げたハウステンボス

 ■美しい大村湾に未来都市をつくる 荒れ地に咲いた夢

 「この土地に美しい自然をよみがえらせ、人と自然が共生するような未来都市ができないだろうか」

 昭和62年夏。神近(かみちか)義邦(73)は、長崎県中央部の大村湾にある針尾島の荒れ地を見渡していた。

 荒れ地にはもともと、工業団地ができるはずだった。高度経済成長期に長崎県が計画し、造成した。完成直後に第1次石油危機(昭和48年)に見舞われ、進出企業もないまま10年以上放置された。ヘドロがしみ出す劣悪な状態だった。

 そんな土地を見て40代の神近が描いた夢から、ハウステンボスは始まった。

 神近は自然や農業と関わりの深い人生を歩んだ。

 生まれ故郷である長崎県西彼(せいひ)町(現西海市)の定時制農業高校を37年に卒業し、同町役場に就職した。役場職員として米農家の指導にあたるかたわら、借りた土地で花の栽培に精を出した。

 その花作りは評判を呼び、近隣の若手農家が神近を訪れるようになった。

 役場を48年に退職し、縁のあった東京の一流料亭や、ベアリングメーカーで働いた後、55年に動物の生態系をテーマにした「長崎バイオパーク」を作った。

 動物園のような檻(おり)を設けず、自然の状態で小動物と触れあえる斬新さが多くの人を驚かせた。

 そして58年7月、大村湾西岸に、オランダの街並みを再現した「長崎オランダ村」=閉園=を開業した。年間入場者は200万人に達し、ほぼ同時期に開業した東京ディズニーランドと並んで、話題の施設となった。

 神近がオランダに着目したのは、長崎との歴史的な結びつきからだ。

 江戸時代、長崎には海外貿易の唯一の拠点である「出島」があった。そこにあったオランダ商館を通じて、欧州の近代文明が日本にもたらされた。

 それだけではない。オランダは干拓の国だ。「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」。こう呼ばれる同国の歴史は、自然と、ときに闘い、ときに協調する歴史だった。農地開拓と生態系保護を両立させるシステムに共感を覚えた。

 オランダ村は成功したが、神近は満足できなかった。「前進だけが経営者が選べる唯一の生きる道だ」。こう信じる神近の目に飛び込んだのが針尾島だった。

 「自然環境を育みながら、快適に生活できる都市をつくる。オランダ村の集大成だ」

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 神近は、東京にある日本設計事務所(現日本設計)に設計を依頼した。社長の池田武邦(92)=現名誉会長=とは、大村湾を通じて築いた絆があった。

 2人の出会いは47年春だった。池田が突然、神近を訪れた。

 その数日前、池田は採用試験で入社希望の女性を面接した。出身地を聞くと、長崎県だという。

 「長崎か。大村湾はきれいなところだよな」

 池田は記憶のかなたにあった、戦時中の大村湾の景色を思い出した。

 昭和20年4月。戦艦大和が徳山(山口県)から沖縄特攻に出撃した。池田は、大和とともに出発した巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗っていた。レーダーなどで敵の動向を調べる測的長だった。

 九州南西沖の海上で米軍の猛攻を受け、大和も矢矧も沈没した。池田は大やけどを負って、海に投げ出された。5時間漂流した後に救出され、帰還したのが佐世保だった。

 海軍病院に入院して傷が癒えたころ、大村湾周辺を散策した。周囲がほぼ陸で囲まれる大村湾は、湖のように穏やかだった。春の陽光で水面が輝き、周囲に山桜が咲いていた。

 「なんて美しいんだ」。多くの仲間を失った池田には、まぶしすぎる景色だった。

 池田は居ても立ってもいられず、長崎に向かった。知人の紹介で、神近に会った。2人は、さざ波がきらめく大村湾を眺め、自然の美しさを語り合った。

 それから15年。「あの美しい景色を取り戻そう」。神近の構想に池田も賛同した。

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 神近らの夢を、時代が後押しした。

 昭和60年代。日本は好景気に沸いていた。全国各地で、テーマパーク構想が雨後の竹の子のように持ち上がった。政治も背中を押す。62年6月、「総合保養地域整備法」(リゾート法)が施行され、開発企業や自治体に税制面で優遇措置が取られた。レジャー産業時代の幕開けだった。

 ただ、神近が造りたかったのは、単なるテーマパークではなく、新しい街だった。

 オランダ王室の宮殿「パレス(宮殿)ハウステンボス(森の家)」や、ユトレヒトに立つ教会の鐘楼「ドムトールン」を模した建物を計画した。

 「模す」といっても、神近はあくまで「本物」を追求しようとした。オランダの政府や専門家の協力が欠かせず、交渉を一手に担ったのが、高田征一(71)=ハウステンボス元専務=だった。

 高田は長崎市で育った後、上智大で学び、英語が堪能だった。地元に戻ってオランダの品物を輸入する会社に勤め、在長崎オランダ名誉領事館や、オランダ大使館の職員とも面識があった。人脈と豊富な知識は、長崎オランダ村の開業時にも発揮された。

 高田が最も心配したのは、宮殿「パレスハウステンボス」の再現だった。

 「海外のどこかの国が日本の皇居をつくりたいといったら、日本の外務省は果たして許可を出すだろうか」。高田の心配通り、オランダ側は「宮殿をつくって、一体何に使うんですか」と疑問をぶつけてきた。

 高田はオランダと日本を何度も往復した。「オランダの歴史を日本に伝え、日蘭の文化交流の拠点となる施設にしたいんです」。丁寧な説明を繰り返した。神近と池田もオランダに足を運んだ。

 ついに、オランダ王室のベアトリクス女王=退位=が、宮殿再現を許可した。

 そればかりではない。オランダ側は「造るのであれば、限りなく本物に近づけてほしい」と、採寸や図面の提供などで、協力した。プロジェクトは日蘭友好の象徴となった。

 平成元年、「24時間戦えますか」というフレーズが流行語となった。言葉通り、高田や日本設計の社員らは寝る間も惜しんで働いた。

 神近は資金集めに奔走した。

 「西の果てだからこそ、思い切った投資が必要なんです」。銀行や企業トップに呼びかけた。

 長崎バスを運行する長崎自動車社長の松田●一(故人)や、日本興業銀行(現・みずほ銀行)頭取で、長崎にもゆかりがある中山素平(故人)らとの知遇を得た。興銀をメーンバンクに、複数の銀行・企業からの支援が決定した。

 「メセナ」という言葉で、企業の社会貢献への関心が高まっていた。「自然に配慮した新しい街をつくる」という神近の理想は、賛同の輪を広げた。地元企業だけでなく、サントリー(現サントリーホールディングス)やキリンビール、雪印乳業(現雪印メグミルク)などが企業館出展を決めた。松下電器産業(現パナソニック)はアミューズメント施設のプロデュースを手がけることになった。

 バブル期とはいえ、有力企業を次々と射止める神近に、誰もが舌を巻いた。

 街づくりは容易ではなかった。花や樹木が育つよう、土壌改良から始めた。それだけで、数十億の金がかかった。

 ディズニーランドの2倍、152万平方メートルに及ぶ敷地で、建設業者が複数のエリアに分かれ、競うように施設を建てた。アムステルダム、ユトレヒトなどオランダの街並みが姿を現し、250戸の分譲住宅地も完成した。

 景観保持のため、街の地下には3・2キロの共同溝を張り巡らせ、上下水道や空調、熱供給などのライフラインを埋設した。全長6キロの運河を造り、海水を引き込んだ。

 開業まで1年に迫ったころ、施工済みの「パレスハウステンボス」で、外壁のレンガとレンガの間の目地の幅が、本物より2ミリ広いことが判明した。「本物だけを提供する」という神近の方針で、4千万円の費用をかけてやり直した。レンガのほとんどは、オランダから輸入したものだった。

 総工費2200億円をかけ。風車が回り、チューリップが一面に咲く、美しい景観が生まれた。荒れ地に神近の夢が咲いた。

 平成4年3月16日、「ハウステンボス」オープニングセレモニーの日を迎えた。その日は雨が降り、風も冷たかった。それでも、日蘭の皇族、王族も出席し笑顔で開業を祝った。

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 国内にいながらヨーロッパの雰囲気が味わえるとして人気を集め、開業初年度の入場者は375万人に達した。JR九州は特急列車を走らせ、大広九州支社(現大広九州)制作のテレビCM「100分で行くヨーロッパ」が話題となった。米国や欧州から大道芸人を呼び、イベントでも「本物」を追求した。

 だが開業直前、バブルは弾けていた。今度は、時代が神近の夢の前に立ちふさがった。

 入場者は伸び悩み、分譲住宅地も半分が売れ残った。不良債権処理に苦しむ金融機関は、ハウステンボスに厳しい態度をとるようになった。巨額の初期投資が、経営の重荷となった。

 経営不振は続き、平成12年3月28日、神近は経営責任を取り、辞任を表明した。この日、興銀が202億円を上限とする債権放棄を決めた。後任社長に興銀幹部が就任した。

 それでも経営は上向かなかった。理想と現実の間には大きな溝があった。

 ようやく光が差したのは22年だった。旅行会社エイチ・アイ・エス(HIS)が新たな経営主体となった。

 HISが経営を引き受けた最大の理由は、ハウステンボスが「張りぼて」ではなかったことだった。神近の理想と、オランダ側の協力があって「本物」を造った。その巨額投資は無駄にはならなかった。

 ハウステンボス社長となったHIS会長の沢田秀雄(65)は、経営を引き受けるにあたり、一度だけ神近と面会した。

 2人は多くを語らなかった。ただ、沢田は、神近が破綻の責任を背負っていることを感じ取った。

 経営者として神近と沢田は違う。神近がバブル期に抱いた夢と、沢田が現実と格闘しながら進化させているハウステンボスは、違うものだろう。

 ただ、「新しい時代の街をつくる」という理想だけは、変わらず佐世保にある。(敬称略)

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