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【ふるさとを語ろう】神戸製鋼所会長・佐藤廣士さん 喧嘩ゴマから金属の世界へ

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【ふるさとを語ろう】
神戸製鋼所会長・佐藤廣士さん 喧嘩ゴマから金属の世界へ

「山道を1時間かけて高校に通った」と語る佐藤氏

 別府湾に臨む大分県日出町(ひじまち)の出身です。気候は温暖で、近年は大分市や別府市のベッドタウンとして知られています。私は現在も大分との縁が深く、「豊の国かぼす特命大使」と日出町の観光大使を拝命しており、大分の食材のPRに余念がありません。

 幼少時は活発で、裏の山でクリや山桃をとったりして遊んでいました。夏場は海。サザエやエビ、カニはまさにとり放題で、おやつ代わりに浜辺で焼いて食べていました。そんな日々が中学1~2年の頃まで続きます。

 勉強はしませんでしたね。生まれたのが終戦の1カ月後、昭和20年の9月。同学年の人数は少なく、県立高校が定員に達していないことを子供心に知っていたからです。また、周囲も中学を卒業すると半分ぐらいが、農漁業をはじめとして社会に出ていました。そうした環境も影響していたのでしょう。私は水彩画が好きだったので、絵描きになりたいと漠然と思ったりしていました。

 ところが、2つ上の兄はずば抜けて成績が優秀だった。先生方に「彼の弟だからできがよいはず」と目をかけられたようですが、あまりに勉強をおろそかにしていたので「少しは兄貴を見習え」と厳しく注意されました。

 中学2年から心を入れ替えて、勉強するようになり、杵築高校に進学しました。

 体を動かすことが好きで、中学時代は卓球部に所属していました。5つの中学が参加する郡の大会では、個人戦で2位になったこともあります。

 しかし、高校時代は運動を断念しました。何しろ自転車で山道を片道1時間かけて通学していたので、余裕がなかったのです。その分、足腰が鍛えられて、卒業時には競輪選手のような太ももをしていました。

 金属の世界に興味を抱いたのは高校2年の時です。理科の教科書に溶鉱炉の話が掲載されていたのがきっかけでした。

 実は幼い頃、コマ同士をぶつけ合う「喧嘩(けんか)ゴマ」に熱中していました。勝つには、芯の部分に当たる鉄の性能が決め手となります。芯を炭で熱して、たたいて水で研ぐと頑丈になり、相手のコマをよく割っていました。

 溶鉱炉の話で、コマのことを思い出し、一気に親近感がわきました。金属とはそれから半世紀以上の付き合いです。

 九州大学に進学すると、1年半にわたって田島寮に入寮していました。寮費は月300円だったので経済的には助かりましたが、「参りました」というほどの汚さ。窓が閉まらなかったため、朝起きると布団の横に雪が積もっていたこともあります。

 兄も九大に通い自分で生計を立てていました。私は工学部なので制約がありましたが、さまざまなアルバイトをしました。印象に残っているのが港湾労働。鯨肉を取り扱う仕事が多く、きつかったですが、昼休みにごちそうしてもらった鯨の刺し身の味は忘れられません。

 大学は金属学科なので、九州・山口の製鉄所などを訪れる機会が多かったですね。最も印象に残っているのは神戸製鋼所の長府製造所(山口県下関市)。アルミニウムの着色工程が、とにかく面白くて。それに触発され表面処理分野の研究室に進みました。その研究室に第1志望で学生が入ったのは、二十数年ぶりだったそうですよ。

 卒業後は大学院に進みました。「学者になるのかなあ」と思った時期もありましたが、やはり実業界の方が水に合っていたようで、鉄鋼業界の中でもバラエティーに富んだ事業を展開している神戸製鋼所に入社を決めました。

 九州には「工業立国の一翼を担っている」という気概があります。日本の発展には欠かせない存在なので、さまざまな側面から支えていきたいですね。(伊藤俊祐)

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【プロフィル】佐藤廣士

 さとう・ひろし 大分県立杵築高校卒、九州大学大学院工学研究科修了。昭和45年神戸製鋼所入社。平成8年取締役。専務、副社長を経て21年社長。25年4月から現職。70歳。大分県出身。