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【施光恒の一筆両断】「英語族」「日本語族」 国の分断招かぬか

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【施光恒の一筆両断】
「英語族」「日本語族」 国の分断招かぬか

 今年7月、拙著『英語化は愚民化--日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)を出版しました。楽天やホンダなどの企業で進む英語の公用語化や、小学校からの英語正式教科化、大学の講義の英語化など、近年の英語偏重の社会改革、教育改革の動きに多くの懸念を覚えるからです。

 私が小学生だった頃、国語の教科書には、フランスの作家A・ドーデの「最後の授業」という物語が掲載されていました。普仏戦争の後に、物語の舞台であるアルザス・ロレーヌ地方の領有権がフランスからプロイセンに移った頃を題材としています。このとき、フランス語の授業が禁じられ、フランス人の教師である「アメル先生」は、学校を去らねばならなくなりました。アメル先生の最後の授業の様子は、次のように描かれています。

 「そこで、アメル先生は、それからそれへと、フランス語についての話をはじめた。フランス語は世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばんしっかりしたことばであること。だから、ぼくたちで、きちんとまもりつづけ、けっしてわすれてはならないこと。なぜなら、民族がどれいになったとき、国語さえしっかりまもっていれば、じぶんたちの牢獄(ろうごく)のかぎをにぎっているようなものなのだから…」(南本史訳『最後の授業』ポプラ社)

 この最後の部分、つまり「…国語さえしっかりまもっていれば、自分たちの牢獄のかぎを握っているようなものなのだから…」という箇所は、政治学的観点からみて極めて重要です。

 評論家の中野剛志氏は、「国力」を「国民が団結・連帯して行動することによって生み出される力」だと規定します(『国力とは何か』講談社現代新書)。そして東日本大震災のような大規模災害や海外からの軍事的脅威、恐慌や経済的危機を克服するためには、なにより国力が求められると論じます。

 「最後の授業」は、こうした国力の本質、および国力と言語との関係をよく理解しています。ある国民が自国の言語を大切にし、守っている限り、多くの危機は致命傷にならず克服可能です。言語の共有が、国民の間にしっかりとした絆を作り、連帯意識や団結心を醸成しているからです。

 世界情勢を鑑(かんが)みれば、わが国は、現在から近い将来にかけて数々の困難に直面するはずです。それに対処するために必要な国民の連帯意識や団結心をきちんと保持していけるでしょうか。

 現在の英語偏重の改革熱を見る限り、大いに心配です。例えば、小学校での英語正式教科化に対応し、やがて私立や国立の中学校入試で英語が必須となるでしょう。英語さえできれば英語化された日本の一流大学への入学はさほど難しくなくなります。経済的に余裕があり、教育熱心な家庭では、今後、小学生の頃から子供を英語圏へ語学留学させることがはやるでしょう。あるいは、親も一緒に「教育移住」することも珍しくなくなるはずです。

 そう遠くない将来、このように育成された「グローバル人材」が、日本の産学官を牛耳るようになります。英語はある程度話せるかもしれないが、日本語は怪しく、それまでの日本人らしい感性や常識を欠く新世代のエリートの誕生です。彼らは日本の一般国民に連帯意識を十分に感じるでしょうか。同じ日本人でも、英語を使って仕事をする「英語族」と、英語が不得手な「日本語族」との間に意識の分断は生じないでしょうか。私の心配が杞憂(きゆう)であることを願います。

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【プロフィル】施光恒

 せ・てるひさ 昭和46年、福岡市生まれ、福岡県立修猷館高校、慶應義塾大法学部卒。英シェフィールド大修士課程修了。慶應義塾大大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。現在は九州大大学院比較社会文化研究院准教授。専攻は政治哲学、政治理論。趣味はアルゼンチン・タンゴ。