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【日本の源流を訪ねて】鞠智城(熊本県山鹿市) 対「熊襲」の城が変遷?

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【日本の源流を訪ねて】
鞠智城(熊本県山鹿市) 対「熊襲」の城が変遷?

国内の古代山城では唯一となる八角形鼓楼などが復元された歴史公園鞠智城

 熊本県山鹿市菊鹿町の国史跡、鞠智城は7世紀後半、東アジア情勢が緊迫する中で、大和朝廷が防衛態勢を強化しようと築いた。国家プロジェクトの古代山城だ。これまでの発掘調査で多くの遺構や遺物が発見され、成果を基に、「歴史公園」としての復元整備が進められている。

 鞠智城は周囲の長さ3・5キロ、面積55ヘクタールの広大な規模を持つとされる。県教委は昭和42年度から平成22年度まで、32回にわたる発掘調査を実施した。国内の古代山城では唯一となる八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や貯水池跡、土塁跡など当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで見つかった。16年2月には国史跡に指定された。

 平成6年度から県教委は、八角形鼓楼をはじめ、米倉(食糧倉庫)、兵舎(防人の住まい)、板倉(武器庫)の建物4棟を復元した。城が築かれた時代と、城の役割、構造について体験的に学べる施設「温故創生館」も開設した。「温故創生」には「古いものを研究することで、新しい文化を生み出す」との願いを込めた。

 古代山城が築かれた当時、東アジア情勢は激しく揺れ動いていた。唐と新羅が、朝鮮半島の百済を滅ぼした。大和朝廷は百済復活のため援軍を送るが、663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。

 朝廷は、唐軍の日本への侵攻に備えて西日本各地に山城を築造した。鞠智城もその一つ。九州を統治していた「大宰府」防衛を目的に築かれた大野城(福岡県大野城市など)や基肄城(佐賀県基山町など)に、武器や食糧を補給する支援基地だったとされる。

 しかし、歴史書をひもとくと、鞠智城をめぐっては多くの謎が浮かび、ロマンをかき立てられる。大野城など、ほかの古代山城は「日本書紀」に築造記録が残されているが、鞠智城の築造記録は見当たらない。「続日本紀」には文武2年(698)に「大宰府をして、大野、基肄、鞠智の三城を繕治(修繕)せしむ」との記述があるだけで、存続年代や、太宰府から70キロも離れた内陸部になぜ築かれたか、目的もはっきりしていない。

 出土土器や瓦の検討結果から、存続年代は7世紀後半~10世紀中頃とされ、大野城などと築造時期も同時期というのが通説だが、県立装飾古墳館元館長の桑原憲彰氏は生前、鞠智城の3つの門がいずれも南向きなことに着目した。「熊本以南の隼人族、熊襲に対する前線基地の意味合いを持っていたのではないかと推測できる。大野城などより以前に築城され、白村江以後、山城としてリメークされたのではないか」との説を示した。

 鞠智城をめぐる記述は平安時代に編纂された「日本三代実録」の「肥後国菊池郡城院の兵庫(武器庫)の戸が自ら鳴る」との奇妙な記事を最後に、歴史から姿を消す。

 大野城、基肄城など九州の古代山城は特別史跡に指定されている。熊本県は鞠智城の特別史跡昇格を目指して県内外でシンポジウムを開くなど、認知度向上への取り組みを加速させる。県教委の温故創生館文化財整備交流課長の矢野裕介氏は「鞠智城の価値を広く知ってもらうことで史跡保存への機運をさらに盛り上げたい。築造時期など解明されていないことについても若手研究者らの参画を求めながら調査・研究を深め、歴史公園として充実を図りたい」と述べた。(谷田智恒)