産経ニュース

【戦後70年 北関東の戦争遺跡】群馬満蒙拓魂之塔(長野原町)

地方 地方

記事詳細

更新

【戦後70年 北関東の戦争遺跡】
群馬満蒙拓魂之塔(長野原町)

 ■露と消えた夢の理想国家建設

 長野原町北軽井沢の大屋原地区に「群馬満蒙拓魂之塔」が建立されたのは昭和49年9月。前年の48年に終戦期の満州(現中国東北部)で犠牲となった県出身者の遺骨14柱が群馬に帰還したことが建立の契機だった。

 遺骨の身元は判明せず、千鳥ケ淵の無縁墓地に葬るという話も出たが、生還した開拓関係者の尽力で拓魂之塔建立が決まり、開拓に従事した全物故者を合祀(ごうし)することとなった。

 群馬から満州の地に渡ったのは義勇軍も含め8700人余り、終戦期の犠牲者は1600人を超えるとされる。

 満蒙開拓移民は大きく「開拓団」と「青少年義勇軍」の2つにわかれる。開拓団の第1陣は「満州国」が建国された7年に渡満し、「第1次武装試験移民」として在郷軍人で組織された。当時は各地で匪賊が出没し、開拓団は匪賊の襲撃に悩まされた。

 第3次以降は、在郷軍人に限らず一般の農民にも参加資格が与えられ、家族帯同も認められるようになっていく。

 青少年義勇軍の派遣は13年から始まり、15~20歳前後の青少年で構成された。義勇軍は派遣前に水戸市内原町の訓練所で2、3カ月の短期訓練を受け、現地訓練所に入る。そこで3年間の訓練を終えれば開拓団に移行するという仕組みだった。

 この満州への日本人移民構想を立案した1人が群馬県旧宮城村(現前橋市)出身の満州国軍政部顧問の東宮鐵男(とうみやかねお)だった。

 東宮は五族協和、王道楽土の「満州国」建設を指揮した関東軍参謀の石原莞爾とは昵懇(じっこん)の間柄で、石原の理想に深く共鳴していた。

 シベリア出兵の経験を持つ東宮はソ満国境沿いに忍び寄るソ連の「赤兵」による入植に脅威を抱く一方、国内では貧しい農家の次男、三男らが引き継ぐ農地がなく、農村対策が急務であることも自覚していた。

 東宮の構想は未開の北満に日本人開拓移民を送ることで対ソ防衛と農村対策を両立させるというもので、この案は石原にも了承された。

 東宮が「満蒙開拓の父」と呼ばれるわけはここにあり、第1次、第2次武装試験移民の際は移民団を指揮し、開拓団の礎を築くことに奔走した。

 しかし、東宮や石原が目指した理想国家「満州国」はしだいに変質していく。「20カ年100万戸移民計画」が国策として動き始め、「満州拓殖公社」による強引な用地買収が行われた。

 その過程で「五族協和」を重視する東宮は実権を握る関東軍へ不満を募らせ、12年8月、内地への異動を命じられる。

 東宮はその3カ月後の11月14日、第2次上海事変後の中国・杭州湾上陸作戦で部隊の先頭に立ち戦死。理想国家建設の夢は露と消えた。(前橋支局 大橋拓史)