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【戦後70年 東北からの伝言】(6) 「模擬原爆」被害の斎藤ミチさん

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【戦後70年 東北からの伝言】
(6) 「模擬原爆」被害の斎藤ミチさん

 ■目標外れ…弟を奪われた

 昭和20年7月20日の朝だった。「手が届くくらい雲が低く垂れ込めていた」。当時は18歳。今もそのときの記憶は鮮明だ。

 「一服茶は縁起が悪いから、もう一杯飲んで行け」。田んぼの草取りに行こうとする弟の隆夫さん=当時(14)=にそう話しかけた。本来はミチさんが行くはずだった。弟が替わってくれたのだという。

 「時間だ、そろそろ行く」。弟は、勧めたお茶を飲まずに、蓑(みの)と笠(かさ)を着けて出掛けていった。そのときの「寂しいような憂いを持った」弟の顔が今でも目に浮かぶという。

 ◆長く知られぬ存在

 その直後に、米軍機B29が低空でやってきた。午前8時半過ぎ、福島市の渡利地区の上空で爆弾が炸裂(さくれつ)した。長崎の原爆の投下演習として落とされた「模擬原爆」だった。

 市内の工場を狙っていたが、目標が外れて渡利地区に落ちたという。当時も「福島駅西側に落とすのを間違えた。天気が悪くて見当が狂った」という噂が流れていた。

 しかし、その存在や被害は国民に長い間知られることはなかった。原爆投下の演習となる模擬原爆の東北での投下は、福島県だけ。6発(1発は投棄、5発確認)が福島市、郡山市、いわき市に投下され、43人が死亡した。

 「バリバリバリ」という落雷のような轟音(ごうおん)と地響き、地下足袋をはこうとしていた自身も、母のユウさんも吹き飛ばされた。父の運男(ゆくお)さんは物置にいて無事だった。近くの渡利小学校の窓ガラスは全て割れ、半径2キロの屋根瓦も壊れたという。

 弟が作業をしていた田んぼから黒煙が上がっていた。「隆夫がやられたっ」。叫び声を上げて駆けつけ、抱き起こすと、「腹がなかった。腸が3つに切れていた」という。ただ、顔は無傷だった。父親が内臓をかき集め、タンカで運び、泥を洗って布団に寝かせた。「もらった隠し米を炊いて、腹部に詰めて、さらしで巻いて弔った」

 ◆全国で唯一の破片

 葬儀のあと、母親がつぶやいた言葉が忘れられない。「隆夫は戦争で死ぬよう生まれてきた」

 逃れられない運命だったということか。「戦地から(戦死して遺骨の入っていない)空箱が届くよりは、親の手で葬られてよかった」と思うしかなかった。

 爆弾の破片は現在、近所の瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)に保管されている。弟が亡くなった田んぼで自分が見つけ、父親が「息子の供養のため念仏の聞こえるところに置いておきたい」と寺に預けたのだ。破片は縦22センチ、横50センチ、重さは約15キロ。模擬爆弾の破片が残るのは全国で唯一ここだけだという。

 戦後は看護の仕事などで家計を支えた。「24時間身を粉にして働いた」。それから60年余、平成23年3月の東京電力福島第1原発事故では、放射性物質で自宅周辺が汚染される苦難にも直面した。

 「70年は波瀾(はらん)万丈、夢のよう」。生きている限り、あのときの記憶を語り継ぐ。 (黒沢通)

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【用語解説】模擬原爆

 米軍が原爆投下の演習のために製造。長崎型原爆と同型で、4・5トンの火薬が詰められていた。計49発を東京都保谷町(現・西東京市)、愛知県春日井市、福島市など全国31都市に投下。400人以上が死亡、1200人以上が負傷した。戦後、その実態は不明だったが、愛知県春日井市の「春日井の戦争を記録する会」(三浦秀夫代表)が平成3年11月、国立国会図書館(東京)に所蔵されていた米軍資料から、投下した場所の一覧表や地図を発見し、公表した。