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【戦後70年 東北からの伝言】(4)志田忠儀さん(山形県西川町)

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【戦後70年 東北からの伝言】
(4)志田忠儀さん(山形県西川町)

 ■召集3度、戦地で過ごした20代 

 朝日連峰のふもと、山形県西川町大井沢で生まれた。19歳のとき、軍人になって国のために働こうと志願した。「おやじも日清戦争に出征したし、男5人兄弟なので1人くらいは国のために戦死するのは当たり前だと覚悟を決めていた」。しかし体重と胸囲が足りず、入隊できなかった。

 それが、就職して自動車免許を取った矢先の昭和12年8月、召集令状が届き、北京近郊の廊坊(ろうぼう)に派兵された。日中戦争の口火を切った同年7月の盧溝橋事件の直後の武力衝突、廊坊事件が起きた場所だった。

 最初の行軍で昼食をとろうとしたときに、敵の襲撃を受けた。敵情偵察を命じられ、銃弾が飛び交う中、敵方に進んで中国兵4、5人が撃っているのを目撃する。「自分の射撃の腕だと3人くらいは倒せるが、そうすると戻れなくなり、報告ができない」と判断し、慎重に引き返したという。

 ◆戦闘は200回以上

 これが200回以上にも及ぶ戦闘の1回目。どんなときも沈着冷静だが、15歳でクマを仕留めた猟師の経験が関係しているらしい。

 江蘇省の宿遷(しゅくせん)では運河の警備を担当した。船を並べてその上に板を張り、車が通れるようにした橋があったが、地元の船頭たちから生活できなくなったと苦情が出たので、通行料を取ってよいとの許可を出し、喜ばれた。麦を刈らないと冬が越せないというので地雷を撤去したりした。中国語も覚え、意思疎通に努めた。「住民が好意をもってくれたので、敵軍の情報も入るようになった」。3カ月後に別の任地に移ったあと、この地の村長たちが「志田を戻してくれ」と陳情にきたそうだ。

 14年7月、陸軍伍長で召集解除となったが、15年4月に2度目の召集。今度は移動修理班としてトラックにミシンや靴の修理道具などを積み、各地の前線を回った。しかし、大陸の乾燥した空気で胸をやられ、翌年には内地送還となった。

 山形に戻って運送会社に就職し、18年に結婚が決まった。その休暇願を本社に出しに行ったときに待っていたのが、3度目の召集を伝える電話だった。

 ◆「隼」で国境警備

 同年9月、今度は北京の第19錬成飛行隊に入隊。戦闘機「隼(はやぶさ)」を操縦し、遠征飛行や国境警備などに当たった。「高度を上げると酸欠で急降下することがあった。入道雲の雷で火花が散ったこともあった」

 終戦は河北省の唐山で迎えた。陸軍軍曹になっていた。10日ほど前に無線班から無条件降伏の情報が入っていたという。「飛行機で日本まで行って戦おうかという連中もいたが、陛下の『しのびがたきをしのび』というお言葉を知って我慢しなければと思った」

 引き揚げは、飛行隊の中でも遅い21年2月。29歳になっていた。20代の大半を戦地で過ごした。「軍隊は義務だったから長いとも感じなかった。むしろ終戦後の食糧難が大変だったな」

 西川町に戻ったあとは大工や土木工事、休日には釣りや猟と、慌ただしく戦後の生活を開始した。その後は、月山朝日遭難救助隊隊長、ブナ原生林を守る運動で先頭に立つなど幅広く活躍。昨年にはその半生をつづった「ラスト・マタギ~志田忠儀・98歳の生活と意見」(角川書店)も出版した。(本間篤)

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【用語解説】日中戦争

 昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件に始まり、日本の無条件降伏に至るまでの日本と中国の戦争。日本軍は主要都市を占領し、中国は国民党と中国共産党による第2次国共合作で徹底抗戦し、長期戦化した。日本側の戦死者は40万人を超えるとされる。