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【戦後70年 戦跡を行く】白壁兵舎広報史料館と新発田西公園(新発田市)

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【戦後70年 戦跡を行く】
白壁兵舎広報史料館と新発田西公園(新発田市)

 ■16連隊「極限」の記憶を伝える

 陸上自衛隊新発田駐屯地(新発田市大手町)の一角に、赤い屋根としっくいの白壁が美しい建物がある。「白壁兵舎広報史料館」は明治7(1874)年、フランス式兵舎を和風建築の技術で建てたもので、昨年5月、改修・移築された。ここは新発田で創設され、同兵舎を利用していた旧陸軍歩兵第16連隊の明治から昭和までの激戦と悲劇の歴史を伝えている。

 ◆激戦地を転戦

 16連隊は日清戦争(1894~95年)では山東半島・威海衛攻略、日露戦争(1904~05年)では奉天会戦に参戦、シベリア出兵(1918~22年)にも出征している。

 昭和14(1939)年のノモンハン事件でソ連軍と戦い、17(1942)年にジャワ島へ上陸、同年10月、米軍が優勢だったガダルカナル島作戦に参加した。だが、食料や武器の補給はほとんどなく、ジャングルで飢餓や病気との戦いとなった。

 隊員の一人で元聖籠町長の長谷川栄作氏(1917~2013年)は著書『生と死の極限に生きて』の中で、同島の戦いを「近代装備と科学兵器を持つ敵に対し、われわれの戦闘の唯一の手段は夜襲のための銃剣一本しかない。(略)絶海の孤島に孤立無援、捨てられたも同然である。大和魂だけでは戦えない。しかも栄養失調にかかり、体は思うように動けない」と記した。

 翌年2月、かろうじて撤退したが、参加約3千人の兵士のうち2800人が戦病没や餓死したとされる。

 兵員補充後、ビルマへ転戦、いわゆる「援蒋ルート(ビルマルート)」攻防などでも約2800人の犠牲を出したとされ、仏領インドシナ(ベトナム)で終戦を迎えた。

 連隊創設から同郷の第116連隊と合わせ約1万5千人が命を落とした。

 ◆資料は没収・焼却

 連隊の資料は終戦時に多くが焼却、没収されたうえ、進駐してきた米軍が、持ち出したり処分したりしてほとんど残っていない。同館には約2500点の資料があるが多くは遺族や市民からの寄贈だ。

 長谷川氏らの遺骨収集団がガダルカナル島を訪れた際に回収した鉄兜(てつかぶと)や銃弾、敵陣にあった鉄条網なども展示されている。

 焼けて房飾りだけが残った連隊旗が飾られている。敗戦後、連隊旗を焼却するよう命令があったが、連隊長の決断で、全焼を避けて主要部分を持ち帰って、新潟県護国神社に奉納したそうだ。史料館にあるのはレプリカだ。

 同館の沢渡博副館長によると、移築から1年4カ月で約4万人が訪れた。「高齢者がデイサービスで訪れ、パネル展示してある軍歌を歌って元気になる人もいれば、苦しかった当時を思い出して涙を流す人もいます」という。

 「祖父母が亡くなったので」などとして寄付される戦争関係の遺品を受け入れており、「記憶」を残していくのも同館の務めだ。

 駐屯地に隣接して新発田西公園があり、多くの慰霊碑が建てられている。

 越佐戦没者納骨堂、日清戦争犠牲者のための越佐招魂碑、日露戦没忠霊塔、シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬地、満州事変・日中戦争の合同忠霊塔、ガタルカナル島戦記念碑、ビルマ戦慰霊平和塔と並んでおり、毎年5月に越佐招魂祭が開かれ、平和の礎となった先人をしのんでいる。(慶田久幸)