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【北関東の戦争遺跡】陸軍金丸原飛行場(大田原市)

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【北関東の戦争遺跡】
陸軍金丸原飛行場(大田原市)

 ■パイロット養成、帝都防衛も担う

 南北に延びていたという2つの滑走路の北端には大学が建ち、大学の前を滑走路の代わりに国道が東西に走る。

 昭和初めから終戦まで陸軍の飛行場があった県北部、大田原市の金丸原(かねまるはら)は、のどかな水田風景がどこまでも広がっている。

 戦後の開拓で飛行場は跡形もなくなり、70年の時を経て田畑などに姿を変えているが、第2滑走路南端だった場所には、飛行機を敵の攻撃から守るための格納庫「掩体壕(えんたいごう)」が残り、ここに飛行場があったことを今に伝える。

 地域の歴史に詳しい大田原市教育委員会文化振興課の長谷川操さん(52)によると、ここに飛行場が設けられたのは、明治42(1909)年に陸軍特別大演習が那須野が原の地で行われたのがきっかけだ。3年後に宇都宮駐屯の陸軍第14師団の演習場となり、昭和9(1934)年、演習場用地の一部に飛行場が整備された。

 演習場は全体で約1千ヘクタール。南北6・8キロ、東西2・5キロに及び、演習に来た兵士の宿舎などもあった。全体の7割は御料地で残りを陸軍が買収するなどして整備したという。

 当初、所沢陸軍飛行学校の不時着陸場、また分教場として開設。戦況が悪化した昭和19年には常陸陸軍飛行部隊金丸原分遣隊に編成替えとなり、大学生を中心に短期間でパイロットを養成する特操(特別操縦士見習士官)の教育機関、さらに戦闘機部隊として帝都防衛の前線基地の役目を負った。ここで操縦技術を学び、特攻隊員として飛び立った学生も少なくない。

 滑走路は2本で、現在の金田南中学校付近から国際医療福祉大にかけて1900メートルの第1滑走路、那須野ケ原カントリークラブ付近から同大にかけて1300メートルの第2滑走路があった。

 また長谷川さんが所有する戦前の地図を見ると、演習場の北西に位置していた飛行場の部分は何の表示もなく、その存在が極秘だったことをうかがわせる。

 掩体壕は那須野ケ原カントリークラブの敷地内にあり、今はゴルフ場の倉庫として、トラクターや芝刈り機などが置かれていた。県内に3基残る「掩体壕」の1つで昭和19年前後に造られたとみられる。

 間口28メートル、奥行き22・6メートル、高さ4・7メートル。アーチ型の厚さ50センチのコンクリートを打設、さらに50センチの土で覆う構造で、飛行機3機が格納できたという。平成24年には栃木県の防空関連施設群として土木遺産に認定された。

 ゴルフ場の許可を経て、掩体壕に足を運ぶと、その上はまるで山のように樹木に覆われていた。多くの人々の記憶から薄れつつある金丸原飛行場。その歴史を伝える掩体壕について、長谷川さんは「過去の歴史をきちんと捉え、日本人が生きたことを知る糸口になると思う」と話した。(宇都宮支局 伊沢利幸)

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 終戦から70年の夏。わずかに残る戦争の記憶をたどれる場所から戦争と平和を考える。