産経ニュース

【戦後70年 東北からの伝言】(2)まかれた爆撃予告6万枚 青森空襲を体験

地方 地方

記事詳細

更新

【戦後70年 東北からの伝言】
(2)まかれた爆撃予告6万枚 青森空襲を体験

 □青森市 富岡せつさん(81)

 「まるで地獄を見ているようだった」。昭和20年7月28日夜、米軍のB29爆撃機の空襲を受けた青森市。次々と投下される焼夷(しょうい)弾は空中で飛び散り、建物が炎で包まれた。激しく燃え狂う火炎、火の風、辺り一面を覆う煙、異様な臭い…。「何もなくなってしまった」。当時、新町国民学校6年だった11歳の少女は、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くすしかなかった。一面、焼け野原と化した古里の姿は70年経った今でも脳裏から離れない。

 昭和20年6月半ば、父と兄を寺町(現・青森市本町)に残し、母の実家の木造町(現・つがる市)に叔母と叔母の2人の赤ちゃんとともに疎開した。1カ月以上経った7月28日、ミルクの配給を受けるため、叔母と赤ちゃんと一緒に汽車で自宅に着いた。何も知らされていなかった父は驚いたが、意外な言葉が発せられた。「青森は今日、空襲になる。木造に帰れ」

 ◆花火のような焼夷弾

 実は前日の27日の夜、2機のB29が6万枚のビラをまいた。数日中に青森市を含む11カ所のうち4、5カ所を爆撃するので避難するように-との内容だった。

 すぐに木造に帰ろうと思ったが、既に汽車はなく自宅に1泊。叔母は塩町(現・青森市青柳、本町付近)の実家に泊まったという。午後9時15分、警戒警報が出され、10時10分には空襲警報に変わった。やがて上空に現れたB29は、照明弾で街を照らした後、次々と焼夷弾を投下。予告された青森空襲だ。少女の目には雨のように降り注ぐ焼夷弾が「花火のように見えた」。そして、あまりにも明るく「目が開けられなかった」という。

 一目散に自宅近くの正覚寺に設けられた防空壕(ごう)に避難。既に中は避難してきた人でいっぱいだった。狭い防空壕に容赦なく熱風や煙が襲い、苦痛に耐えられずに外に逃げ出し、命を落とす人たちの姿を目の当たりにし「なぜ、こういう風に人と人が殺し合いをしなければならないのか」と涙が止まらなかった。

 喉が渇き、水が欲しくて父と兄と3人で防空壕を出た瞬間、何かに足を引っ張られたような感覚が。「じゃぽん」という音。水だ。実は正覚寺にはもう一つ防空壕があり、中に水があったのだ。熱風が入らないよう入り口を布団でふさぎ、3人で必死で布団に水を掛け、しのいだ。後に知ったことだが、叔母は防空壕の中で赤ちゃんを抱いたまま亡くなっていたという。

 ◆全て焼き尽くされて

 夜が明け、防空壕から出ると前日までの地獄絵図が嘘のように晴れ渡っていた。だが、何もかも焼き尽くされた無残な姿に「びっくりして怖かった」。

 悲惨な体験から70年。青森市は青森空襲があった7月28日を「平和の日」とする条例の制定を検討している。「戦争で亡くなった人たちの犠牲のおかげで今の幸せな暮らしがある。二度と戦争のない世の中にするためにも私の体験を後世に伝えたい」。そう語る姿には、命ある限り「戦争の語り部」として若い世代に語り継いでいく責務がみなぎっていた。(福田徳行)

                   ◇

【用語解説】青森空襲

 大戦末期、日本がポツダム宣言を拒否。昭和20年7月28日、硫黄島を飛び立った米軍のB29爆撃機が仙台湾から秋田県男鹿半島へ抜け、青森市に向かっていた。午後10時37分~11時48分までの71分間にわたって、62機がM74六角焼夷弾38本を束ねたE48焼夷集束弾を投下(うち1機は投下できず)。8万3000発の焼夷弾が降り注いだ。青森市内の約9割が焼け野原と化し、第一復員省(旧陸軍省)によると、市民ら1018人が亡くなったとされる。