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【戦後70年 東北の記憶】洞爺丸転覆事故(下) 「青函トンネル」が具体化

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【戦後70年 東北の記憶】
洞爺丸転覆事故(下) 「青函トンネル」が具体化

 1155人の犠牲者のうち240人は青森県人だった。「北海道沖で起きた事故だが、青森の人にとっても大きな衝撃だった」。船舶会社の元社員で、洞爺丸の転覆事故をはじめ青函連絡船の歴史を研究している青森市の工藤多命男(ためお)さん(81)はそう振り返った。

 戦後間もない頃、青函連絡船の客室の一角は重くて大きな荷物を抱えた人々が占領していた。青森から函館にコメを運び、代わりに北海道から海産物を仕入れてくる「担ぎ屋」と呼ばれる行商をしていた人たちだ。夫婦や親子でやっていた家庭もあり、最盛期で約300人いたとされる。「1人でコメ2俵(120キロ)を背負って青森駅のホームから桟橋に向かう人たちをよく見かけた。今じゃ考えられないが…」。青森駅周辺では担ぎ屋で生計を立てていた人が多かったという。工藤さんの自宅周辺でも夫婦で担ぎ屋を商売にし、洞爺丸に乗って犠牲になった人がいた。「残された子供たちがかわいそうだった」

 ■連絡船は生命線

 食糧難の時代。朝、青森発の連絡船に乗って、その日のうちに連絡船で帰ってくる日々。多少のリスクはあっても担ぎ屋にとって青函連絡船は生きていく上でなくてはならない“生命線”だった。

 洞爺丸の悲劇が後に、国鉄が威信を懸けて挑んだ昭和の大事業に結び付いていく。

 大惨事となった洞爺丸など5隻の船の事故をきっかけに、戦前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化。「青函トンネル」だ。

 昭和36年に建設が始まったが、完成までにはさまざまな困難があった。49年12月5日、竜飛(たっぴ)作業抗3690メートル地点で出水事故が発生し、毎分6トンもの湧水で130メートルにわたってトンネルが水没。さらに、51年5月6日、吉岡作業抗4588メートル付近で発生した出水事故では、毎分85トンで押し寄せる水をせき止めるために防水堤を作っても破られ、作業抗は3キロにわたって浸水した。青函トンネル最大の出水事故だった。

 度重なる出水事故や冬場の過酷な環境下での地上部の工事などが影響し、完成までに34人が殉職。北海道を望む竜飛には慰霊碑が建てられ、毎年8月には慰霊祭が開かれている。

 ■北海道新幹線へ

 60年3月、青函トンネルは本抗が貫通、63年3月13日、初めて本州と北海道が鉄路で結ばれた。同時に、青函連絡船が長い歴史に幕を閉じる日ともなった。

 洞爺丸事故から62年、青函トンネル貫通から31年の歳月を経て、来年3月末には北海道新幹線が青函トンネルを走る。それは、多くの人たちの尊い命が奪われた洞爺丸事故と青函トンネルの悲運の歴史でもあることを後世に伝えていく責務がわれわれにはある。(福田徳行)