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【歴史のささやき】大久保の危機救った五代友厚 志學館大教授・原口泉氏

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【歴史のささやき】
大久保の危機救った五代友厚 志學館大教授・原口泉氏

鹿児島県産業会館前にある五代友厚の銅像

 五代友厚(1836~1885)は西郷隆盛、大久保利通と並び、「薩摩の三才」と呼ばれる。通称の「才助」という名は、15~16歳のころ、島津斉彬から賜った。現代の教科書には大阪の政商として北海道官有物払下事件(明治14年)にしか現れない。しかし、大阪の商工業発展に大きな足跡を残し、関西では恩人として慕われる。

 維新後に51歳で没するまで、友厚の功績は数多い。明治元年、政府の参与、外国官権判事(ごんのはんじ)などを勤め、英公使・パークス襲撃事件などの外交事件を処理した。また、大阪造幣寮の設置、大阪為替会社、通商会社の設立に尽力するが、会計官権判事として横浜転勤となったのを機に辞職して野に下った。

 下野にはさまざな理由があるだろう。五代は幕末の薩英戦争のとき、船奉行副役であった。この時に交渉のためとはいえ自ら英国の捕虜となったことが、五代の急進的開明論もあって、薩摩藩の武断派の強い反感を買っていたようである。

 その五代は、大阪実業界に身を投じてからは水を得た魚のように活躍する。金銀分析所を設置し、資金を得ると全国各地の鉱山経営に着手する。五代はよく知る朝倉盛明(もと田中静洲)を生野鉱山(兵庫県)の所長に据えた。後、朝倉は鉱山の近代化に成功した。

 明治11年には大阪株式取引所(現・大阪取引所)を創立、さらに大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を創立して自ら初代会頭となり、商業統制を確立して大阪の衰退防止に当たった。財界が確立したのは五代の功績が大きい。また、大阪商業講習所(現・大阪市立大)を設立し、関西貿易社、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)、神戸桟橋の設立に関与するなど、大阪の商工業の発展に多大な貢献をした。

 五代は大阪で確かな信用と幅広い人脈を築いた。明治2年、自らも英和辞書を刊行するが、薩摩藩学生の名で出版された「薩摩辞書」を完売したのも五代の力であった。同書は明治20年ごろまで6回も復刻され、日本人の英語学習に大きく寄与した。前田献吉・正名兄弟、高橋新吉ら3人の薩摩藩士が作者であった。彼らは薩摩藩留学生の選には洩(も)れたが、海外渡航の夢を果たした。

 政界における五代の功績の最たるものは大阪会議の実現だ。大阪会議は明治8年2月、大阪で開かれた立憲政体採用をめぐる維新元勲の会議である。板垣退助と木戸孝允が参議に復帰し、1人政府にとどまり孤立していた大久保はひとまず政権の危機を脱した。板垣は明治6年の征韓論の対立で西郷とともに政府を去り、翌年木戸も台湾出兵問題などで大久保と袂(たもと)を分かっていたのである。板垣と木戸の間には立憲政体移行をめぐって急進論と漸進論の対立はあったが、2人が参議に復帰して協調が成立したのである。

 会議の結果、元老院と大審院の設置、地方官会議の開催が決められ、わが国の三権分立制がスタートした。この大阪会議の黒幕が五代であった(宮本又次「五代友厚伝」1983年)。大久保はこの間、大阪の五代の屋敷に約2カ月間滞在、8年の元旦を五代邸で迎えている。著者の宮本氏は「五代は大久保のブレーンとして奔走した」とみている。

 2人は囲碁仲間でもあった。大阪会議を実現し、五代と別れると、大久保はその心境を漢詩に賦している。題は「明治8年冬日、碁を打ち偶(たまたま)作る 兼(あわ)せて松陰君(五代)に送る」。2人は夜の更けるのも忘れて碁を打ち、その音が、雪が閑かな窓をたたく音とまじりあっている。対局の中に素晴らしい妙味のあることは2人しかわからない。2人には勝敗を競う心は毛頭ないという意である(藤田悠子「大久保利通漢詩集」2012年)。

 私は大久保政権の富国強兵、殖産興業政策を支えたのは五代だと思う。五代と大久保の共通点は、死後借金を残すほど私利私欲がなかったことと、神として祀られることもなかったということである。

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【プロフィル】原口泉

 昭和22年鹿児島市生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10年から23年まで教授を務め、17~21年は同大生涯学習教育研究センター長を兼務した。23年4月に志學館大人間関係学部教授に就任、24年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史で「龍馬を超えた男小松帯刀」(PHP文庫)など著書も多数。大河ドラマ「篤姫」や、9月から放送予定の「あさが来た」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。