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【語り継ぐ陸軍桶川飛行学校】(5)覚悟胸にそれぞれの特攻

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【語り継ぐ陸軍桶川飛行学校】
(5)覚悟胸にそれぞれの特攻

 ■沈黙貫いた生還の高橋少尉

 桶川飛行学校から飛び立った第79振武隊員の12人は、いずれも実戦経験がないままに、機体の色を実戦用に塗り替えた練習機で特攻の任務に就いた。現在の同学校の資料室に展示された12人の写真からは、大半が20代前半とは思えないほど精悍(せいかん)な印象を受ける。

 12人の名前と出身地は以下の通り(敬称略)。山田信義(27)=愛知▽二村源八(22)=大分▽山本研一(22)=京都▽清水義雄(22)=滋賀▽郷田志郎(23)=大分▽池田保男(22)=新潟▽佐藤新平(23)=岩手▽川島猪之助(21)=栃木▽田中富太郎(22)=群馬▽難波武士(25)=岡山▽上野実(21)=茨城▽高橋静夫(生還)=東京。

 ◆寄せ書き

 出発を2日後に控えた昭和20年4月3日、既に選ばれていた12人のうち1人の少尉に残留命令が下り、隊員の入れ替えが行われた。特攻隊に志願していても、腕のいいパイロットは後進教育のために残されることもあったという。隊から外された少尉のために、隊員らは同日、色紙に言葉をしたためた。

 「大義 靖国にて待つ」「必死捨身」「直路突進」「必死必中必殺必滅」…。色紙は後に鹿児島の知覧特攻平和会館に寄贈され、隊員の覚悟を伝えている。

 この色紙に「靖国にて待つ」と書き残した隊長の山田少尉は、知覧へと向かう途中、母親に会おうとしてすれ違い、今生の別れを果たせなかった。

 ◆母への電報

 桶川飛行学校から出発した4月5日、第79振武隊は岐阜県の各務ケ原飛行場で一泊した。岐阜は山田少尉の母親の出身地で、母親が住む愛知にも近い。山田少尉は電報を打ち、飛行場から近い那(な)加(か)駅を待ち合わせ場所にして母親を待った。

 しかし、母親は約40キロ離れた自らの故郷・上麻生(かみあそう)駅で息子を待っていた。遺族によると、電報には「ナカエキ」ではなく「ノカエキ」とあった。母親はなぜ上麻生駅に向かったのか。「彼(か)の駅」と誤読して故郷を連想したのか。遺族は母親が会えずに泣いていたことを旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会に伝えている。山田少尉は翌朝、山口県の小月飛行場へ飛び立った。

 同会の会員で通信兵だった瀬戸山定さん(89)=さいたま市=は「ナとノは全く異なる打電なので、通信士の受信誤りはありえない。インクの不良でナの横棒が打ち出されなかったのか」と首をかしげ、「運命とは皮肉なものだ」と2人の悲しみに思いをはせる。

 ◆散華

 4月16日に鹿児島県の知覧基地から出撃した第79振武隊は、その日、10機が散華した。途中、爆弾が機体から落下したため知覧に引き返した池田少尉は、22日に同県の国分基地から再出撃し、帰らぬ人となった。

 高橋少尉は、敵機の攻撃を受け、サンゴ礁に不時着。奄美大島の島民に救出された後、福岡県で再教育を受けた。

 「特攻隊は生きて帰ることが許されない。『なんで生き残ったのか』と厳しく叱咤(しった)されたのではないでしょうか」。桶川飛行学校で整備員をしていた柳井政徳さん(89)は推測する。

 高橋少尉は出撃命令を待ったが、終戦間際の日本には飛べる飛行機も燃料も残されてはおらず、そのまま終戦の日を迎えた。そして昭和61年に亡くなるまで、特攻隊や戦争のことについて、家族らに一言も語らなかったという。

 「仲間は国のために死んだにもかかわらず、なんで俺だけ生き残ってしまったんだろうと、人生の十字架を背負って生きてきたのでしょう。死ぬも地獄、生きるも地獄。そういう時代だったんです」。柳井さんは涙をぬぐった。(川峯千尋)