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破格の教師・徳永氏を語り継ぐ 教え子ら熊本に記念碑

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破格の教師・徳永氏を語り継ぐ 教え子ら熊本に記念碑

徳永康起氏の言葉を刻んだ顕彰碑の除幕式。槻木小2年の上治南凰さんも除幕を手伝った

 ■校長職辞し現場教育を実践

 伝説の教師が昭和の熊本にいた。芦北町出身の故・徳永康起(やすき)氏だ。若くして校長職に抜擢(ばってき)されながら、現場教育の実践を目指して、自ら“降格”を志願し一教師となった。「超凡破格の教育者」と評された恩師の功績を語り継ごうと、教え子らが初任地の多良木町の下槻木(つきぎ)小学校跡地に顕彰記念碑を建立した。

 徳永氏は明治45年、熊本県芦北町に生まれた。少年時代、学校令によらない私塾「合志義塾」で論語などを学び、教師の道へ進んだ。

 昭和8年、21歳の時に多良木町の下槻木分校に赴任。母からは「人様の子供を大切に」と言いつけられたという。その後、35歳で校長となったが、40歳で「一教諭として教壇に立ちたい」と自ら校長職を辞し、平の教諭に戻った。

 平教諭となった直後の28年から2年間、徳永学級の児童だった益城町の元自衛官、植山洋一氏(72)は、貧しい家庭の子供に心を砕いた師の姿を、鮮明に覚えている。

 「昼休みの弁当の時間になると教室から抜け出す子供がいた。貧しくて弁当を持ってくることができなかったのだが、先生はその姿を見て心を痛めたのでしょう。自分も弁当をやめて、昼はその子らと一緒に過ごすようになった」

 別の学校では、親の愛を知らずに育ち、乱暴者になった子供に「君の精神をたたき直してやる」と言い、学校の宿直室で、その子をぎゅっと抱きしめながら寝たこともあったという。

 こうした教え子との交流を45年には、一冊の本「教え子みな吾が師なり」にまとめた。著書の中で徳永氏は「筆舌につくせぬ苦労の中をすっくと生きてきた子がたくさんいます。だからこそ、教え子みなわが師なり、です」と述べている。

 徳永氏は、生徒が巣立った後も、はがきを送り続けた。日本を代表する教育哲学者、森信三氏の勧めで始めたという。教え子への手紙を生涯の「行」とし、複写を残していた。54年に66歳で死去したが、14年間に約2万4千通を出した。

 顕彰碑のきっかけは昨年4月、過疎化で閉校していた多良木町の槻木小に児童1人が入学することになり、7年ぶりに再開したことだった。槻木小は徳永氏の初任地、下槻木小からも近い。

 徳永氏は生前、「斯(か)くの如(ごと)き山間部には一人学級と雖(いえど)も学校を維持すべし」と語っていたという。この言葉通り、小学校が復活したのだ。

 この知らせを聞いて、徳永氏の教え子による「ごぼく会」が徳永氏の功績を語り継ごうと、顕彰碑建立を計画した。ごぼく会は、30年に八代市立太田郷小を卒業したメンバーでつくり、今年で結成60周年を迎えた。

 顕彰碑は高さ約160センチ、幅約130センチで、槻木産の石材を使用。「まなこを閉じて トッサに 親の祈り心を 察知し得るもの これ 天下第一等の人材なり」と、森信三氏が揮毫(きごう)した徳永氏の言葉が刻まれている。

 今月11日、多良木町にある徳永氏の初任地、下槻木小学校跡地で行われた碑の除幕式には、徳永氏の遺族のほか、ごぼく会、地元や町の関係者ら約60人が出席。昨春に再開校した槻木小2年の上治南凰(うえじ・みお)さんも手伝って除幕し、碑の完成を盛大に祝った。

 ごぼく会代表の横田忠道氏(73)=神奈川県=は「人間は2度死ぬ。1度目は肉体の消滅で、2度目は他人の記憶から消えていくことだ。顕彰碑建立で徳永先生は永遠に語り継がれ、記憶に残っていく。その意味では先生の存在は不滅になったと思う」と述べた。