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風化進む下関条約 中国に配慮? 調印120年

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風化進む下関条約 中国に配慮? 調印120年

伊藤博文、李鴻章が会談した春帆楼2階大広間を再現した日清講和記念館

 明治28(1895)年に山口県下関市で日清戦争の講和条約(下関条約)が調印されて17日で120年を迎える。極東の小国だった日本が「眠れる獅子」といわれた清を破ったことで、国際社会で存在感を高め、国内的にも産業振興のきっかけとなった。近代日本にとって一つの節目だが、風化が進み、地元・下関を含め関心は今ひとつ高まっていない。(奥原慎平)

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 日清講和会議は明治28年3月、関門海峡を望む現在の山口県下関市阿弥陀寺町の料亭、春帆楼(しゅんぱんろう)で始まった。日本側は伊藤博文と陸奥宗光、清側からは李鴻章らが出席した。春帆楼の2階大広間を会場に、会議は繰り返し開かれ、4月17日、条約が締結された。

 春帆楼は現在も営業する。その横には昭和12年6月、会議と下関条約の意義を後世に伝える目的で日清講和記念館が建てられた。会議で使われたいす16脚にテーブル、ランプなど、当時をほうふつとさせる文物のほか、伊藤博文や李鴻章の書も展示している。

 この記念館は、今では知る人ぞ知るスポットだ。

 今月13日、春帆楼で食事を終えた旅行客の一行に話を聞くと、「条約が結ばれた場所ということも、今年が120年とも知りませんでした。この後も、講和記念館内に寄る時間はありません…」と立ち去った。

 日清戦争と講和条約が日本に及ぼした影響は大きかった。日本は当時の国家予算の4倍近い賠償金を手にし、現在の北九州市に官営八幡製鉄所を建設するなど、重工業化を進めた。

 だが、地元・下関市などで、下関条約締結を記念する行事は、ほとんど予定されていない。市の関係者は「100周年の平成7年も特に目立った行事はありませんでした。下関市は中国・青島市と姉妹友好都市を結んでおり、相手を刺激したくないという意識も働いたかもしれません」と語った。

 下関条約の影響は日本国内にとどまらない。

 朝鮮歴代王朝が古来、中国の王朝と結んでいた「冊封(さくほう)体制」と呼ばれる主従関係から外れた。台湾は日本に割譲され、昭和20年まで日本統治が続いた。

 その台湾において、下関条約への関心は高かった。

 100周年の平成7年4月17日には、党綱領で台湾独立をうたう民進党議員ら100人が春帆楼を訪れ、記念大会を開いた。国際社会に対し、台湾の歴史についての理解を求める「下関宣言」を発表した。

 そのほかにも、下関を巡る記念ツアーが人気を集め、多い日は400人が台湾から春帆楼などを訪れたという。

 だが、120周年の今回、台湾から来日する人は少ない。春帆楼総支配人の鞍馬達也氏は「観光で訪れる台湾の旅行者は多いが、条約と関連したイベントはありません」と残念がる。

 一方、日清講和記念館は中国、韓国両国の注目が集まっているという。

 下関市によると「日清戦争で、なぜ日本が勝ったか検証する」などの目的で、平成24年頃から中国や韓国メディアが取材に訪れるようになった。

 26年度には中国から6回、韓国から3回の取材班が訪れた。

 だが、中国や韓国でどう報じられているかは不明だ。日清講和記念館館長の町田一仁(かずと)氏は「放送後に、番組の内容をこちらにも教えてもらうようにお願いしているが、送ってくれず、中身は把握していない」と語る。

 政治利用、プロパガンダ利用が懸念される。

 静かに迎える調印120年。伊藤博文の玄孫にあたる民主党の松本剛明元外相は「伊藤は講和会議で、偏狭な愛国心からではなく、冷静に国を導こうと考えていた。その後、厳しい批判にも関わらず三国干渉を受け入れた。こうした下関条約前後の歴史を、120年の区切りの年に考え、指導者として伊藤の意思をくみ取るべきだろう」と語った。

 一方、民間の立場で台湾との交流を続けてきた福岡市の「日華親善友好慰霊訪問団」団長、小菅亥三郎氏は嘆く。

 「日本が国際社会へ初々しいデビューを果たした節目だ。清統治下の大陸でも民族自立の動きが始まったなど意義は大きい。今日のような自虐史観にとらわれた狭い言論空間では先達に申し訳が立たない」

 訪問団は6月21日に文明史家の黄文雄氏らを招いて、条約締結120年を顕彰する講演会を福岡市内で開く。

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【用語解説】日清戦争と下関条約

 明治27年7月、李氏朝鮮の内政改革の方針をめぐって日清戦争が勃発した。日本は、陸海軍とも終始、優位に戦いを進めた。翌年4月の日清講和条約(下関条約)の結果、日本は台湾、澎湖諸島、遼東半島を獲得した。遼東半島はその後、ドイツ、フランス、ロシアによる「三国干渉」の結果、返還した。また、賠償金を得た。