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【県立浦和図書館物語】(2)県民の苦楽見守った鳳翔閣

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【県立浦和図書館物語】
(2)県民の苦楽見守った鳳翔閣

 ややくすんだクリーム色の外壁と、白い屋根を支える柱の美しい装飾に「鳳(翔閣(ほうしょうかく)」と呼ばれた気品が伝わっている。さいたま市緑区の市立浦和博物館。休館日の23日、敷地には風にざわめく木々の葉の音だけが響き、鳳翔閣がかつて図書館として使われていた時代にタイムスリップしたかのようだ。

 同博物館は県女子師範学校を一部復元して利用しており、鳳翔閣の名は明治11年、明治天皇北陸巡幸で同校がご宿所として利用された際、時の太政大臣・三条実美がつけた。鳳翔閣には大正14年、開館4年目の県立埼玉図書館(現県立浦和図書館)が移転され、師範学校の役割を終えた後も、県の文化の中心を担うこととなった。

 ■歓迎

 「木造ではあるが二階建のモダンなその建物はわたしの眼には立派に見えてうれしかった。児童閲覧室も広いし、本の冊数も増えて楽しくてたまらない気持であった。(中略)書架に並ぶ児童図書をみてその全部を読んでやろうと、こども心に大決心をしてせっせと通ったのである」

 元同図書館書記の佐波義正は、昭和47年刊行の「埼玉県立浦和図書館50年誌」で、移転してきた図書館が子供たちの目にどう映ったかを記している。

 1日の平均閲覧人数は、大正13年度は189人、昭和元年度は467人と順調に伸び、8年度ごろまで毎年10万人を上回った。しかし、満州事変が勃発した6年以降は減少の一途をたどった。戦争の影響だけでなく、利用者増に図書館が対応しきれず、本を書棚で見て借りる自由出納方式から、目録で選ぶ請求出納方式に変えざるを得なかったことも一因だ。

 ■戦火

 17年を境に戦況が悪化すると、軍需管理部などが館内を占拠したため、館内閲覧業務は次第に困難になっていく。大政翼賛会県支部などの要望で部屋を貸し出した結果、図書館に残されたのは館長室などの職員が使用する部屋と、閲覧室・書庫のごく一部となってしまった。

 19年12月3日の同図書館の日誌には、空襲の記録がある。

 13時35分警戒警報発令

 13時45分空襲警報発令

 爆弾焼夷(しょうい)弾ヲ落下セルモ官民ノ協力ニヨリ一部火災ヲ生シタルモ鎮火セリ

 15時40分京浜上空ニ敵機ヲ認メズ

 15時50分頃空襲警報解除

 16時40分頃警戒警報解除

 浦和は20年4月14日と5月26日に空襲を受け、図書館に大きな被害はなかったが、186世帯770人が被災し、死者は17人を数えた。

 ■閲覧停止

 図書も他の物品と同様に配給制度となった。飼料用の大豆かすやどんぐりの粉までが主食として配給される困窮した状況で、図書館には日本図書出版配給会社からわずかな冊数が供給されるだけとなり、20年3月24日、ついに館内閲覧業務は停止に追い込まれる。

 同年5月には館長も不在となった。それでも残されたわずかな職員は、人々に本を届けるため蔵書約2万5千冊を開放し、工場や学校への本の貸し付けを行う巡回文庫の経営に全力を傾注。本の発送と回収、出張購入、寄贈図書の受け入れなどを懸命に続けた。

 終戦時の職員は、若い男女1人ずつと老齢の夫婦だけだった。この4人が、前回触れた韮塚一三郎を新館長として迎えることになる。荒れ果てた館の惨状に絶句した韮塚だったが、温かく迎えてくれた4人の笑顔については、先の50年誌の中で「今も忘れない」と記した。