東九州道(3)「土地と気持ちを買う仕事だ」

平成の高速道路はこうして生まれた
険しい山地に架かる「寺迫ちょうちょ大橋」。遠くに日向灘が見える=宮崎県日向市

 ■土砂崩れ、昼夜問わず復旧作業

 「君が用地の総大将だ。しっかり頼むよ」

 平成10年の年明け。北九州市の市長、末吉興一(83)は、外郭団体、市土地開発公社の用地課長、仲野茂之(86)に声を掛けた。

 「必ず、地主の皆さんを口説いてみせます」。仲野の言葉に、末吉はうなずいた。話題は東九州道の用地買収だった。

 同市小倉南区の沖で、18年完成を目指し、北九州空港の建設が進んでいた。末吉は昭和62年の就任以来、「鉄冷えの街」と呼ばれた北九州の再生に、力を尽くしていた。新空港は、末吉の構想に欠かせなかった。

 空港への連絡橋に、東九州道が直結する計画だった。「北九州-大分-宮崎を結ぶ大動脈ができれば、福岡-熊本-鹿児島ラインにも後れを取らない」。それが末吉の思いだった。

 だが、東九州道の整備は遅れていた。空港周辺区間の施行命令が出たのは、平成9年12月だった。

 「このままでは、空港開港に間に合わない」。慌てた日本道路公団は、市に用地買収の協力を要請した。

 末吉は用地買収の職員を100人集めた。「用地軍団」と名付けた。その中で、地権者との補償交渉のプロが、仲野だった。

 26歳で市役所入りした仲野は、ほぼ用地一筋だった。

 土地の買収金額を決めるには、中央省庁が定めた補償基準など、膨大なルールや理論がある。仲野はこれらに精通していた。関係者の会議などにも進んで出席し、最新事例を頭にたたき込んでいた。

 そこまでする市職員は珍しい。いつしか難しい用地交渉は、すべて仲野に任されるようになった。

 伝説の用地担当者は、昇進試験を受けず、ヒラのまま定年を迎えた。仲野は福岡市内の企業に再就職するつもりだった。

 その話を耳にした末吉は、仲野を呼んで、こう告げた。

 「仲野君、君は管理職を一切やったことがない、ヒラのチャンピオンだ。その身柄を、俺に預けてほしい」

 末吉は、市土地開発公社の用地課長に、仲野を就けた。退職後の「昇進」は前例がなかった。そこには末吉の思いがあった。

 昭和35年、末吉は熊本、大分両県にまたがる松原・下筌(しもうけ)ダム建設に、建設省(現国土交通省)の職員として関わった。

 地権者の一部が、用地近くの山腹を占拠し、そこに監視小屋を建て、激しい反対運動を繰り広げた。苛烈な現場で、末吉は工事事務所の用地課長として、補償交渉の窓口を担った。

 用地交渉の厳しさ、それを成功させる職員の大切さを、誰よりも知っていた。

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 末吉の指示で、仲野らは、東九州道の用地買収に取り組むことになった。対象は、空港周辺約8キロ分の土地だった。

 2人1組で地権者を回った。不動産鑑定士の出した評価額を基に、道路に面しているか、土地の形はどうかなど、個別の状況を考慮し、上乗せ額を算出した。

 地権者の思いは、それぞれだ。仲野は誰もが納得できる、公平・正確な補償額を提示し、説得した。

 理屈や基準だけでは、交渉はできない。人間関係を築くのが第一歩だ。

 冷たくあしらわれることもあった。それでも、地権者の家を何度も訪ねた。

 「私は、市民の生活を良くしようと、行政マンになったんです。一日も早く、空港につながる道路が必要なんです」

 朴訥(ぼくとつ)とした口調で、話した。連日連夜、玄関の呼び鈴を鳴らした。

 やがて地権者は、熱意にほだされた。「あんたがそこまでお願いするんなら、しようがないね」

 8キロ分の買収交渉に、公団は6年はかかるとみていた。北九州市の用地軍団は、半分の3年余りで完了させた。その後、工事も進んだ。

 18年2月26日、東九州道の北九州ジャンクション(JCT)と苅田北九州空港インターチェンジ(IC)がつながった。空港オープンの20日前だった。

 「君たちは最強の用地軍団だ。間に合ってよかった。よくやった」。末吉は仲野らを褒めた。

 「用地屋は土地と一緒に、人の気持ちを買う仕事だ。苦労も多く厄介だが、やり遂げたときはうれしい」

 末吉と仲野は、同じ思いを抱いた。

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 東九州道の総延長436キロのうち、これまでに約352キロが開通している。

 山を抜き、谷を覆い、道は続く。難所も多かった。

 宮崎県日向市東郷町の「寺迫ちょうちょ大橋」(712・5メートル)も、そんな難所に誕生した。

 「バタフライウェブという工法があります。この地形にちょうど良いと思います」

 平成20年ごろ、西日本高速道路(ネクスコ西日本)延岡高速道路事務所の構造工事長、花田克彦(50)=現ネクスコ西日本四国支社建設事業部調査役=に、声がかかった。花田は橋の設計担当、相手は三井住友建設の社員だった。

 橋の建設予定地は、険しい山中だった。資材を運ぶのも難しい。それでいて、建設コストを抑えなければならない。

 バタフライウェブは、橋桁の上床と下床の間に、蝶のような形をしたコンクリートパネルを、ずらりと並べる工法だった。

 特殊な形をしたパネルによって、橋の荷重をパネルの中心へと圧縮する力と、外に引っ張る力に分解し、より薄いパネルで支えることができる。

 それまでの工法に比べ、10%程度の軽量化を実現可能という。工期短縮にもつながる。

 とはいえ、世界で例のない工法だ。

 花田は、パネルが橋の重みをどう支えるか、コンピューターシミュレーションを繰り返した。自信を持った設計図ができあがるまで、半年以上かかった。

 花田の設計を基に、25年8月、ちょうちょ大橋が完成した。橋を見上げ、花田は感動した。「世界初の技術で、みんなが長年使える丈夫な橋が、完成した」

 花田は今も、年1回は四国からマイカーで現地を訪れ、ちょうちょを見る。

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 今年7月初め、西日本豪雨によって東九州道の椎田南IC-豊前IC間で、土砂崩れが発生した。崩落した土砂は8千立方メートルにも達した。

 ネクスコ西日本北九州高速道路事務所の副所長、仙石(せんごく)博嗣(53)は、現場を見て、愕然(がくぜん)とした。

 「普通にやれば、復旧まで2カ月はかかる。だが、盆までに間に合わせないと、大変なことになる」

 復旧の難所は、高速道路そのものより、真上に架かる生活道路の橋だった。橋脚周辺が、崩れていた。

 北九州市八幡西区のネクスコの事務所で、工程管理の関係者らを集めて、復旧方法が話し合われた。仙石は現場の責任者となった。

 「一日も早く復旧したい。作業員を昼夜連続で投入してもらえると、ありがたい」

 仙石は、復旧工事にあたる大林組の担当者に提案した。

 「分かっています。できるだけ早く道路を開放する。その思いは共有しています」。1日最多で120人の作業員が、現場に入ることが決まった。

 工事が始まった。橋脚周辺などの地盤に何本もの鉄筋を打ち込み、斜面にモルタルを吹きつける。

 通常、斜面の下から順番に足場を組み、鉄筋を打ち込む。だが、交通量の多い夏休みが近づいていた。足場を組む時間も惜しい。

 ネクスコ西日本と大林組は、クレーンを使うことにした。

 斜面の穴を掘る専用機械を大型クレーンでつり下げた。この機械で斜面に直径約7センチの穴を掘る。

 ただし、穴を斜面に対して直角に掘らなければ、地盤強化にならない。

 操縦士が、慎重にクレーンを動かす。掘削機械の重さは数百キロになる。斜面に立つ作業員が、寸分の狂いもないよう機械の位置や向きを調整した。道路から30メートルもの高さで、作業することもあった。

 次々と穴が掘られた。次は長さ3・5メートルと6・5メートルの鉄筋を、穴に通した。計1400本にもなった。

 作業は昼夜を分かたず進んだ。

 仙石は3日に1回、現場に入った。ひどい暑さだった。作業員が休憩する詰め所を訪ねた。「お盆まであと一息です。ただ、熱中症対策も十分取ってください。よろしくお願いします」と頭を下げた。

 仙石らはA3サイズの紙に工程を書き、期間短縮の方法を練った。

 さまざまな分野のプロフェッショナルが力を発揮し、作業は順調に進んだ。

 8月8日午後3時、通行止めは解除された。災害発生から1カ月後だった。

 作業員は肩を抱き合って喜んだ。その姿を見て、仙石に実感がわいた。「やっと終わった」。1カ月間の苦労が報われた気がした。(敬称略)