信玄の小田原城攻め 力攻め諦めおびき出し作戦

静岡・古城をゆく 北条五代の史跡
昭和35年に復興された地上38メートルの天守閣は小田原市の歴史的シンボルになっている

 駿河薩捶(さった)山で北条氏による封じ込め策の窮地から脱した武田信玄は永禄12(1569)年5月、北関東・武蔵から駿東郡・伊豆へと激甚なまでの転戦を演じた。8月には甲府を出馬し信濃国境の碓氷峠を越え、9月には北関東拠点の鉢形城(埼玉県)と滝山城(東京都)を攻撃したが、落城させなかった。あくまで信玄の標的は本拠の小田原城攻めであり、軍勢の消耗を避けて、10月にはいよいよ小田原城を包囲した。ただ4日後には城下に放火して撤退した。

 あまりにも要害性の高い地形と巨大横堀に囲まれた堅城から、信玄は力攻めを諦めて極意のおびき出し作戦に転じることになる。全軍が相模川沿いから三増(みませ)峠を抜けるコースをたどり甲斐へ戻るところで、鉢形城の北条氏邦、滝山城の氏照らが追撃に向かった。作戦通り、それを読んでいた信玄が三増峠の戦いで撃破したことは広く知られる。

 越後の上杉謙信が同4年、関東管領職を名目に北条氏政の小田原城を攻めたが、この時も籠城(ろうじょう)策が功を奏したことから、かなりの堅城だったと理解できる。

 明応期(1492~1501年)に大森氏から奪い、北条氏綱が改造を加えた小田原城の主要部は、現在の城よりも山の手、競輪場背後の八幡山丘陵という「八幡山古郭」にあったとするのが定説だった。近年、城域の400カ所以上での発掘調査で、古郭から往時の出土遺物は少なく、すでに早い段階から現在の近世本丸・天守に置かれていたことが分かってきた。

 それは平成26年、本丸北側直下の御用米曲輪の発掘調査で、氏政期と推定される切石敷(タイル状)で几帳面(きちょうめん)に造成された井戸・庭園跡などが検出され、全国的にもまれで特異な庭園造成が話題となったことが証しとなる。 (静岡古城研究会会長 水野茂)