【維新伝心】士族反乱の地を行く(2)萩の乱「立役者」の光と影 - 産経ニュース

【維新伝心】士族反乱の地を行く(2)萩の乱「立役者」の光と影

 多くの観光客が訪れる山口・萩の城下町。表通りから少し離れた場所に、家がひっそりとたたずむ。幕末の思想家、吉田松陰の叔父である玉木文之進の旧宅だ。案内板には「松下村塾発祥の地」と記される。
 松陰は、教育者として数多くの維新志士を育てた。その松陰を教育したのが玉木だった。教育方針は、厳格の一言に尽きる。
 玉木は城下町の児童を集めて松下村塾を開いた。この塾を松蔭が後に継いだ。
 玉木は明治維新の「陰の立役者」といえる。ただ、最期は悲劇に終わった。
 明治9年10月、新政府への士族反乱の1つ、萩の乱が起きた。首謀者は松下村塾に学んだ前原一誠だった。
 前原らは蜂起に際し、長州藩の藩校、明倫館に「殉国軍」の看板を掲げた。
 前原の下には数百人が参集したといわれる。殉国軍は、政府軍の拠点がない山陰路を通り、上京して天皇に奸臣(かんしん)の排除を直訴しようと試みた。
 だが、その計画を断念し、萩に戻った。待ち構えていた政府軍と市街戦になり、数日で鎮圧された。
 多くの士族は「今ごろになって、また始めるのかということで、勇み足の前原党の火遊びを冷ややかに見送った」(諸井條次著『萩の乱と長州士族の維新』)という。
 この乱に玉木の養子、正誼(まさよし)が加わり、戦死した。正誼は後の陸軍大将、乃木希典(まれすけ)の実弟だった。
 「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」。玉木はこう言い残し、自ら命を絶った。
 松陰らの墓の前で切腹した。その生涯は、明治維新の光と影を映し出す。
 地元の観光ガイド、中村美津江さん(73)は「吉田松陰の活躍は、玉木文之進の教育があればこそです。玉木がいなければ、明治維新はなかった。それなのに、玉木は萩の乱の責任を取り、自害した。その功績をぜひ、多くの人に知ってほしい」と語った。
 萩の乱の後、新政府は前原ら首謀者を斬首し、300人を上回る兵が処罰された。
 半世紀の時が流れ、昭和初期になると、軍の青年将校らによる五・一五事件(昭和7年)や二・二六事件(同11年)が起きた。前原と同じく「君側の奸を討つ」ことを掲げた。
 政府首脳を殺害した「テロ事件」だったが、国民の間からは減刑嘆願運動も起きた。軽い処分で済んだ将校もいた。
 厳罰で臨んだ明治政府と比べ、「軍」そして世論への「政治」の萎縮が見て取れる。そして“甘い”処分は、さらなる萎縮を引き起こす。
 ノンフィクション作家の保阪正康氏は「テロへの恐怖」こそが、その後のわが国を破滅的な戦争に突き進ませた、と指摘した。(大森貴弘)