【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】蒲原城の戦い(静岡市清水区蒲原) - 産経ニュース

【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】蒲原城の戦い(静岡市清水区蒲原)

東側の御殿山には蒲原城があり、背後には支城の薩●山砦が存在する
本状曲輪(本丸)には土塁、虎口はなく、今川期の古式な構えである
 ■信玄、陽動で駿河の拠点攻略
 永禄12(1569)年正月、今川氏を支援する北条氏政は4万5000の大軍を率いて薩●(さった)山に布陣し、興津川を挟んで武田信玄と対峙(たいじ)した。北条氏の作戦は長期にわたり信玄を興津川にくぎ付けにし、その間に上杉輝虎(謙信)に武田領・信濃を攻撃させる狙いだった。信玄は一時、窮境に陥ったが、何とか織田信長を介して将軍となった足利義昭を動かして謙信と「甲越和与」の締結に成功し、侵攻を免れた。
 信玄は同年4月、横山城(静岡市清水区)、久能城(同市駿河区)の守備を固め、両河内(りょうごうち)と樽(たる)峠(清水区)の山道を開きながら甲斐に帰国した。6月にも軍兵を整えた信玄は駿河制圧を後回しにし、まず北条領となった駿東郡へ侵攻。深沢城(御殿場市)、三島から韮山城(伊豆の国市)を攻撃し、富士大宮城(富士宮市)へ転じて攻略している。7月には北関東の北条方諸城を攻め、9月には相模の小田原本城を包囲したが、撤兵の際に三増峠で北条軍を撃破した。
 12月、信玄は再度駿河に侵攻し、北条軍の駿河の拠点・蒲原城を攻めた。城将の北条氏信(北条幻庵の子)らが守備していたが、信玄が南麓の東海道を素通りしたため、氏信はおびき出され、背後に隠れていた武田勝頼らが城内になだれ込んだ。壮絶な戦いの末、城兵1千余が討たれ、信玄は吹上の六本松(清水区)で首実検をしたという。
 蒲原城は駿河湾に迫る急峻(きゅうしゅん)な山上に構えられた。本城曲輪と大堀切を挟んだ北の善福寺曲輪が主要部で、この辺りは山中城(三島市)の馬出曲輪に類似し、障子堀は確認できないが、北条氏による改造が指摘されている。将来、城跡公園化のため発掘調査が実施され、今後が楽しみである。ここから駿河湾への眺望は良く、御殿山とともに桜の名所で知られている。(静岡古城研究会会長 水野茂)
●=土へんに垂