【今こそ知りたい幕末明治】(70)本間雄治 RICOHを生んだ縁 - 産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】(70)本間雄治 RICOHを生んだ縁

 城下町にあった商家、日本初の女性化学者、生命保険の営業マン-。佐賀における3者の縁が、グローバル企業「RICOH」の誕生に大きく関わった。
 江戸時代、佐賀・唐人町に穀物商、吉村家があった。
 維新期の当主は、吉村善次であった。彼は婿養子として、黒田平八の次男、吉郎(1875~1942)を迎え、4代目当主とした。
 平八は明治30年頃、佐賀米穀取引所の理事の職にあった。穀物商の吉村家とは旧知であり、取引関係からこの縁談が成立したと推測される。
 吉村吉郎は醤油(しょうゆ)醸造業を始め、同35年に佐賀醤油合資会社として法人化をはかる。業績は順調であった。
 吉村家の所蔵品をみると、「佐賀馬車鉄道株式会社株主・吉村吉郎・金五十円也」と記された株券があった。佐賀馬車鉄道は36年創立だ。吉村家は、他社に出資するほど、潤沢な資産を有していた。
 明治42年、34歳の吉郎は佐賀市会議員にも当選し、地域および醸造業界のリーダーとなる。後の昭和9年には、佐賀商業会議所の会頭に就任した。
 そんな吉郎の実の妹が、黒田チカであった。明治17年生まれの彼女は、日本初の女性化学者と称される。東北帝国大学を卒業後、東京女子高等師範学校教授(現お茶の水女子大)となる。文部省選出で英国オックスフォード大学にも留学した。
 そして大正6年創設の「理化学研究所」の研究員としても活躍した。
 理化学研究所は「理研」と呼ばれ、日本の最先端の研究機関であった。この理研から生まれた発明を、事業化する目的で「理化学興業株式会社」が昭和2年に設立された。
 発明品の中に「陽画感光紙」があった。この商品を取り扱う九州総代理店となったのが、黒田チカの実兄、吉郎が経営する「吉村商会」であった。ちなみに他の代理店は、神戸の鈴木商店など全国で5社であった。
 しかしながら、吉村商会の感光紙事業は芳しくなかった。
 その頃、吉村商会は富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の代理店も兼業していた。その保険外交員として、市村清が来訪していた。
 市村の営業成績は抜群であった。吉村吉郎は当然、感光紙の営業も市村に託そうとした。
 市村は断った。市村は自ら九州総代理店になるべく動いたのである、昭和4年のことであった。
 理化学興業は、簡単には市村に営業許可は出さなかった。大変な交渉の末に、市村は「吉村商会」の名前を使うことなどを条件に、ようやく折り合った。さらに、吉村商会へ営業権2千円を支払った。
 昭和9年版「帝国商工録 福岡県」に以下のような記載がある。
 感光紙(製造)
 吉村商会
 福岡市因幡町五十八
 理研製品販売
 営業主 吉村清(市村清の誤植)
 こうして、市村清の大実業家への道が始まった。
 吉村吉郎が黒田チカの実兄であったこと、黒田チカが理化学研究所の研究員であったこと、市村清が富国徴兵保険の外交員であったこと-。どの縁が欠けても、「RICOH」マークはなかった。
 吉村吉郎が始めた醤油醸造業は、「佐星醤油株式会社」として現在に続く。佐賀が誇る100年企業だ。
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【プロフィル】本間雄治
 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。