【今こそ知りたい幕末明治】原口泉(69)近代日本警察の生みの親・川路利良 - 産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】原口泉(69)近代日本警察の生みの親・川路利良

フランスを模範とした警察制度を日本に導入した川路利良(鹿児島県立図書館所蔵)
 天保5(1834)年、鹿児島市皆与志町に、川路利良が生まれた。警察制度を導入し、近代日本の礎を築いた人物である。元治元(1864)年の禁門の変で、長州の来島又兵衛を討ち取る戦功を立て、西郷隆盛から認められたといわれる。ただ、川路は若かりし頃から華々しいキャリアの持ち主であった。
 川路は12歳の時に、藩主就任前の島津斉彬のお供で初めて江戸に上った。その後、10代藩主・島津斉興のお供として江戸から薩摩へ戻った後、再び江戸勤務の命を受けた。斉彬が藩主として初めて薩摩へ赴く際は、飛脚を任され13カ所に知らせを届けている。西郷が斉彬に抜擢(ばってき)される前から、川路は斉彬の元で活躍していた。
 特に軍事の才能があった。軍の士気を鼓舞するため、ホラ貝を吹いたり陣太鼓をたたいたりする「貝太鼓役」を任され、江戸の砲術家である下曽根家で調練した。貝太鼓役には、戦の呼吸をつかむことが求められる。
 西洋太鼓術を学ぶため、諸藩から数百人の入門希望者が集まった際には、川路が最初の皆伝に選ばれた。
 剣術では直心影(じきしんかげ)流の伝授も受けた。
 実際、川路の実力は戦場で発揮された。禁門の変での戦功により兵具隊長となった。その後の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争で奮闘し、賞典禄8石を賜り、藩の兵具奉行に任命された。
 明治4(1871)年、川路は西郷に同行して上京し、東京府大属の行政ポストにつく。
 この年、政府は廃藩置県を断行した。藩や武士の特権が、一夜にして無くなるのだ。四民平等の近代国家を樹立する目的とはいえ、相当の反発、そして反乱が予想された。明治政府は薩長土の3藩から御親兵計約1万人を上京させた。さらに、東京の治安維持に邏卒(らそつ)隊を組織した。西郷は邏卒隊のトップに、信頼の厚い川路を選んだのだった。
 明治政府の権力を裏付けできる治安力が、求められていた。西欧型の警察組織と制度の確立が必要であった。この具体化のため、川路は西欧視察団の一員として欧米の警察を視察した。
 明治7(1874)年、フランスを模範とした警察制度を日本に導入し、自ら警察のトップ、大警視(警視総監)に就任した。
 「声無キニ聞キ、形無キニ見ル」をはじめ、川路の警察官としての理念は『警察主眼』に記され、今でも警察官や公務員のバイブルになっている。
 この間、「明治六年の政変」により西郷が帰郷すると、鹿児島出身者はぞくぞくと官を辞し、西郷に従うという事態が起きた。
 しかし、川路の態度は冷静だった。西郷への私情と、警察創設という公的使命をはっきりと分けた。警察内部の鹿児島出身者を統率して、帰郷者を最小限度に留めた。「国家行政の活動は、一日として休むわけにはいかない」という川路の強い信念であった。
 明治10(1877)年、西南戦争が起こる。川路は陸軍少将兼大警視として別働第3旅団を率いて抜刀隊を指揮し、西郷軍に大きな打撃を与えた。
 警察制度の確立に尽くした川路だが、郷土の評価は「尊敬」と「憎悪」の両極に分かれる。
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【プロフィル】原口泉
 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。