沖縄県那覇市「琉球楽器またよし」 響き続ける名工の音 逸品も格安で入手可能

老舗あり
「店は400年続いてほしいね」と語る店主の又吉俊夫さん=那覇市安里の「琉球楽器またよし」

 店の名前は2回変わった。看板を掲げる場所も転々としている。

 それでも沖縄県三線(さんしん)製作事業協同組合の関係者が「那覇市内の老舗」として紹介するのが「琉球楽器またよし」だ。観光客が集まる国際通りから約200メートルの店では、入手困難なセイロン黒檀で作った逸品が格安の5万円台で手に入る。

最初はパラシュート

 創業は終戦後の昭和24年。故又吉真栄(しんえい)さんが石川市(現うるま市)で「又吉真栄三味線店」を始めた。当時は米軍施政下で、物資は不足していた。だが、店を始めるきっかけを与えたのも米軍だった。

 「父は米軍基地で働いていたんだけど、何かのお礼で米兵に三線を作ったら、すごく喜ばれたみたいで。それでいけるんじゃないかと思ったそうです」

 真栄さんの三男で、2代目店主の俊夫さん(69)はこう話す。店を始めてからも米軍の「お世話」になった。知人が基地から盗んできたパラシュートを持ち込み、蛇革の代わりに布地を使ったという。

 店が繁盛したのは「パラシュート三線」が安価だったからだけではない。手先の器用さもあり、人が1週間かけるところを1、2日で完成させた。

 ところが真栄さんは数年後に店をたたみ、宮崎県真幸町(現えびの市)で農業を始めてしまう。今となっては理由は分からない。俊夫さんは「危険を察知したんじゃないか」と想像する。俊夫さんが石川市から引っ越すまで、後に米軍戦闘機が墜落する宮森小学校に通っていた。

 又吉一家が沖縄に戻り、那覇市松尾で店を再開したのは34年だった。琉球民謡の大家、故普久原(ふくはら)朝喜(ちょうき)さんを大阪に訪ねた際、「早く沖縄に帰って三線を作れ」と怒鳴られたことが真栄さんを後押しした。店は36年に那覇市久茂地へ移転し、屋号も「真栄堂」に改めた。それからの真栄さんは名工として地歩を築き、53年には文化功労賞を受賞した。

盗んだ名品の手触り

 そんな真栄さんにまたとない機会が与えられたのは、沖縄国際海洋博覧会が開かれた50年のことだった。徳川美術館(名古屋市)が所蔵する江戸時代の三線が展示され、又吉さん親子は手に取ることを許された。手袋をはめることが条件だったが、親子は目を盗み素手で手触りを確かめ、密(ひそ)かに複製を作った。

 その経験は後に生きる。平成4年に首里城(那覇市)が復元された際、徳川三線の複製が収められた。その協力者として白羽の矢が立ったのは俊夫さんだった。俊夫さんは「図面があってもレントゲン写真を使っても駄目だ。直接手にしなければ三線のことは分からない」と語る。

 真栄さん死去後の昭和62年、店は現在地に移った。以前は路地裏にあり、「表通りに店を持ちたい」と話していた父の願いを実現した。「まだ父には追いつけない」。場所は変われども、俊夫さんの耳には真栄さんが奏でる音が響き続けている。(那覇支局 杉本康士、写真も)