《平成の名所はこうして生まれた》角島大橋(3) 「目立たない橋に」 主役は海と島のこだわりで景勝地に

 
建設工事が進む角島大橋

 平成2年春。八千代エンジニヤリング広島支店の技術者、河辺真一(59)=現取締役広島支店長=は、海岸から角島を眺めていた。

 「きれいだ。エメラルドグリーンとコバルトブルー、もっと濃い青…。海が3色に変化している。日本海にこんな景色があったなんて」

 建設コンサルティング業の同社は、山口県から角島大橋架橋の予備調査を受託していた。基本的な計画を策定する仕事だ。

 入社9年目の河辺が、担当に指名された。橋の設計は、一部に関わったことはあったが、一から全て手がけるのは初めてだった。

 「わが子と同じだ」。ひとり、気合を入れた。

 河辺は角島の景色を見て、設計の基本方針を定めた。

 「目立たない橋にしよう。主役は海であり、角島だ。景観を壊さず、周囲に融合させる。決して自己主張してはいけない」

 この方針の下、橋の構造やルートの検討が始まった。

 本土から角島の最短ルート上に、「鳩島」があった。無人の小さな島だが、マグマが柱状に固まった「柱状節理」が観察できる。北長門海岸国定公園の中でも、第1種特別地域として保護されていた。

 鳩島を60メートル迂回(うかい)するルートが決まった。

 「景観を壊さないように、橋の高さは、波がかぶらないぎりぎりまで低くしたい」。河辺はこう考えた。

 だが、周辺の海は漁船なども通る。橋で航路をふさぐわけには、いかない。

 行き交う船の確認や、船会社への聞き取りによって、航路にあたる部分は、海面から橋桁まで高さ18メートルが必要だった。河辺はその部分だけ、山のように盛り上がる形状を考えた。

 結果、左右にも上下にも曲線の多いデザインとなった。

 「この橋は、島民の生活道路だ。景観への配慮だけでなく、島の人がストレスなく通れるようにしないといけない。勾配をいかに緩やかにするかが勝負だ」

 厳しい制約の中、利便性を一番に考えた。

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 基本設計を終え、4年度から詳細設計に入った。技術者として、腕の見せ所だった。

 設計思想が似ている沖縄県宮古島市の池間大橋を視察した。車で走ると、海面を滑るような感覚になった。感心した。

 ただ、日が落ちると橋上は暗かった。

 「照明の間隔がずいぶん空いている。観光地なら良いが、生活道路なら走りにくい。角島大橋は歩いて渡れるが、専用の歩道はない予定だから、暗さは問題だ」

 照明が多すぎれば、「目立たない橋」という基本から外れてしまう。河辺は最適な照明の明るさや間隔を研究した。

 30~180メートルまで、さまざまな間隔に照明を配置した場合の、光の届き具合を計算した。60メートル前後の間隔が最適だと弾いた。ちょうど、橋脚の間隔と同じで、景観も壊さない。

 デザインでは、色も大事な要素だ。橋の大部分はコンクリートだが、桁の一部に鋼鉄を使う。

 多くの橋では、鋼鉄部分をカラフルにして、個性を出す。あちらとこちらを「つなぐ」という橋の役目を意識し、ゲートのように彩色したケースもあった。

 専門家も交え、山口県庁で開かれた景観検討委員会では、こうしたカラフルさを求める声もあった。

 河辺は反論した。

 「この橋は、いかに目立たないかが大事なんです。自然の海の美しさを、最大限引き出すような橋にしましょう」

 鋼鉄部分を、コンクリートと同じ白色系に塗装することにした。色見本を取り寄せ、橋で使うコンクリートに重ねて、検証した。

 欄干は、安全性と見た目の両立を意識した。

 通行人の中でも、特に体の小さな子供の転落を防ごうと、欄干に縦の線を入れた。このラインは、車で走ると、視界を妨げない。美しい海を目に焼き付けることができる。

 コンクリートが黒ずまないように、橋桁の横面などに雨水を通す切り込みを入れた。

 初めて海を見た日から、全ての設計を終えるまで、3年が過ぎた。

 「目立たない橋」へのこだわりが、完成後、角島大橋を観光名所として目立たせることになった。

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 人口1千人ほどの角島は、山口県豊北町(現下関市)に属する。

 角島大橋の事業主体は豊北町だが、過疎地域の振興という理由で、費用の大部分は国が負担する枠組みになった。

 河辺がまだ、基本設計を考えていた3年4月、町役場に、専門部署「橋梁係」ができた。

 担当係長は、田村淳(68)=現豊北生涯学習センター嘱託職員=だった。

 田村は角島の対岸で生まれ育った。豊北高校(現下関北高)時代、島から通う同級生の苦労を、目の当たりにした。海が荒れ渡船の最終便が繰り上がるたびに、授業中でも下校を余儀なくされていた。

 役場に入った後、島が見える場所に家を建てた。

 架橋プロジェクトが動き始めると、担当係長としてがむしゃらに動いた。島民の苦労を思えばこそだった。河辺ら業者との打ち合わせに関係団体との協議、県との交渉など、席を温める暇はほとんどなかった。

 だが、事業規模が大きすぎた。町の手には負えないと、4年度から県が肩代わりする代行事業になった。

 田村の手を離れることになり、正直、ホッとした。

 ところが4年3月、町長の野中清(故人)は田村を呼び出した。

 「次の異動で、県に出向して角島大橋をやってもらう。町にとって大事な橋だから、しっかりやってくれ!」

 技師として県の土木事務所に勤務するのは、知る限り初のケースだった。

 「嘘だろ…」。それが本音だった。だが、田村以上の適任者はいないのも現実だった。

 「町を代表して、文字通り、町と県の懸け橋になるしかない」

 覚悟を決めた。両者の密な連携が不可欠な状況もあった。

 建設手法の決定や施工業者への発注が進む中で、一部の町民、とくに本土側の住民から、不安の声が上がり始めた。

 橋脚による潮流の変化や水質汚濁、砂浜の流失を懸念する声だった。

 「本土側の町民の理解がなければ、せっかくのプロジェクトがこじれてしまう」

 田村はこうした町民の思いを、県や業者に伝え、説明会の開催を求めた。

 ただ、要求を伝えるだけで、県と対立しては元も子もない。休日返上で県職員とのソフトボール大会などに参加し、交流を深めた。高校時代、野球部でならした腕が役立ったが、40過ぎの体にはきつかった。それでも「町の立場が少しでも良くなれば」との思いだった。

 平成5年度、工事が始まった。その年度の終わり、田村は、同僚にこんな提案をした。

 「橋脚の根本に、地元の子供に絵を描いてもらったらどうだろう?」

 新たに架かる橋へ、近隣の子供に愛着を持ってほしかった。田村の県庁への出向期間は終わりが近づき、少し感傷的にもなっていた。

 巨大な橋脚は本土側で建設される。6年5月、橋脚の建設現場に、角島をはじめ町内の小学生が集まった。

 角島小6年の藤本英忠は、渡船で現場に出かけた。遠足気分だった。

 教師は「最後は土に埋まってしまう部分だけど」といったが、子供はみな、わくわくしていた。藤本は30センチ四方の枠に、ペンキでイシダイを描いた。

 その後、橋脚は海底の泥に沈んだ。文字通り、縁の下で橋を支える。

 今、35歳になった藤本は、若手漁師として島の水産業振興に力を入れる。販路開拓に、角島大橋は欠かせないと実感している。  (敬称略)