角島大橋(2)架橋は夢物語じゃない

平成の名所はこうして生まれた
角島と本土を結んでいた渡船(手前)。奥では角島大橋の建設が進んでいる(松下晋治氏提供)

 ■年賀状作戦「晋太郎先生に届いた」

 「新潟県と群馬県の間に三国峠がある。田中角栄さんが、この難所を貫くトンネルを造った。建設費は、住民1人当たり500万円と弾かれたそうです。角島の島民は1100人。500万円かければ55億円でしょう? 55億あれば、橋は架けられる。決して夢物語じゃないんです!」

 昭和58年、角島選出の豊北町議、工藤徳一(故人)は、島民が集まる場で熱弁を振るった。

 角島は、本土と1日7便の渡船で結ばれていた。島には中学校までしかなく、多くの生徒は対岸の豊北高(現下関北高)に渡船で通学した。

 渡船は片道30分だが、冬の日本海は荒れ、しばしば欠航した。

 欠航が予想されれば、島の高校生だけ授業を早退し、船着き場に急いだ。船に乗れなかった社会人は、町役場の宿直室などに泊まった。

 不便さだけではない。島の主要産業である漁業にも、離島のハンデが影を落とした。島の港に水揚げしても、本土への出荷までに時間がかかり、鮮度が落ちる。安くしか売れなかった。

 島内には診療所しかなく、一刻を争う救急搬送も船を使うしかない。島民にとって、架橋は命に直結する問題だった。

 一方、「こんな何もない島に、橋なんか無理だ」と諦めムードも漂っていた。

 工藤は歯がゆかった。島民一丸となって運動を盛り上げなければ、架橋は夢のまた夢で終わってしまう。

 説得材料として工藤が引っ張り出したのが「コンピューター付きブルドーザー」の田中角栄だった。

 角栄はロッキード事件の1審で有罪判決を受けた直後だった。それでも、田舎と都市の格差解消を推し進めた元首相の人気は、高かった。

 角栄とは言わないが、工藤本人も、ブルドーザーのような突進力を持っていた。

 6年前の52年、水道が島の対岸まで引かれた。

 島民は井戸水を使っていた。この機会に水道への切り替えを目指したが、1戸あたり50万円の負担があるという。みな二の足を踏んだ。

 「今やらんでどうするか!」。工藤は一喝した。この言葉で、島の意見はまとまった。

 58年11月、「角島大橋建設期成同盟会」が結成された。業界団体や自治会の幹部ら、島民300人が名を連ねた。「夢の懸け橋」を合言葉に、活動を進めた。

 だが、夢が幻に終わる不安を、人一倍強く抱いていたのも工藤だった。

 「橋ができるか、できないか、実際は分からん…。でも、子や孫の代の暮らしを考えたら、今運動をやっておかないと、だめなんだ」

 期成同盟会の設立直後、工藤が珍しく弱音を吐露した。角島漁協青壮年部長の中野秀幸(66)=現同漁協筆頭理事=は、らしくない言葉に驚いた。

 それでも工藤は、表舞台では不安を押し隠し、強気を通した。そんな工藤を核に、島はまとまった。

 「夢」の実現へ、島を挙げた運動が熱を帯びた。

                 × × × 

 「なんだこれは…」

 昭和60年の正月。山口県企画部長の二井関成(せきなり)(75)=後に山口県知事=は、自宅の郵便受けを開けて、思わず声を上げた。

 「はやく、つのしまに、はしをかけてください」

 「はしは、ぼくたちの、ゆめです」

 角島から届いた年賀状だった。年端もいかない子供の字もあった。

 企画部長は、離島振興も所管する。二井はそのポストに前年4月に着任した。角島にも2~3回、足を運んだ。

 「確かに不便だとは思ったが、島民の熱意がこれほどとは…」

 拙い字だからこそ、思いが伝わった。胸が熱くなった。

 「年賀状作戦」はもちろん、期成同盟会が主導したものだった。

 豊北町農協の角島支所長、古野学(85)=後に豊北町議、下関市議=は、作戦に向けて年賀状1千枚を買った。島の郵便局にあった年賀状を、買い占める勢いだった。

 あて先は、県選出の国会議員に知事、県の部課長らだ。対象者全員に小学生からの賀状が届くように、割り振りを考えた。子供が一生懸命書いた年賀状なら、簡単に捨てられないだろう-。そんな計算もあった。

 「橋の実現には子供の力が必要です。先生から指導をお願いできませんか」

 古野は島に一つの小学校を訪れ、頭を下げた。

 「そんな政治的な活動を」となじられるかとも覚悟した。だが、教員は二つ返事で了承した。

 島外から赴任した教員は、不便さを実感していた。架橋はイデオロギーではなかった。島民の生活向上という、現実的な政治目標だった。

 年賀状作戦は、昭和60年からほぼ毎年、続いた。角島大橋の建設が始まってからは、早期完成を訴える文言で投函(とうかん)し、島民の気持ちを伝えた。

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 大規模な公共事業は、熱意や気持ちだけでは動かない。実現には、政治の後押しが重要だった。

 建設運動を主導した工藤は、頻繁に上京して、省庁や県選出国会議員の事務所へ架橋を陳情した。

 漁協の若手を代表し、中野も一緒だった。

 手応えはなかった。建設省の役人に陳情書を渡しても「はい、分かりました。まぁ、聞いておきますよ」。冷たい反応が続いた。

 昭和62年11月25日。工藤と中野は上京した。「いつもと同じように、鼻であしらわれるだろう」。豊北町長の野中清(故人)ら、陳情団10人の足取りは重かった。

 議員会館にある安倍晋太郎(故人)の事務所に向かった。安倍は自民党幹事長だ。「ポスト竹下登」、つまり次期首相の最有力と目されていた。陳情団が、安倍本人に会えたことはなかった。

 この日は違った。秘書から近くの料理店に案内された。座敷でしばらく待つと、安倍が姿を見せた。ブラウン管で見るまま、スマートで柔和な表情だった。

 「今日は役所の担当者に話を聞いてもらうから。皆さんの思いをしっかり伝えてください」

 安倍はこう言うと、関係する省庁の職員10人ほどを、部屋に招いた。

 「君たち、話を聞いてくれや」。安倍はこう言い残して、すぐに部屋を出た。

 30代の中野は、せきを切ったように、思いの丈をぶつけた。

 「心筋梗塞や脳卒中など、本土並みの医療体制があれば、助かった命が身近にたくさんありました。橋は命を救うと同時に、若者にとって、外の世界につながる夢の懸け橋でもあるんです。夢が持てれば、島は発展します」

 職員は30分以上、耳を傾けて、部屋を出た。

 陳情団全員が高揚感に包まれていた。帰りの列車の中、こんな会話を交わした。

 「これだけ話を聞いてもらったのは初めてだ。これは、あれかのぉ…」

 霧の中を手探りで進むような運動に、光が差した。そんな気がした。

 間もなく、架橋に向けた調査費計上が決まった。平成元年、山口県は水深などの予備調査に着手した。

 「私たちが書き続けた年賀状を、きっと晋太郎先生は読んでくれていた。だから、島民の切実な願いを分かってくれたんだ」。中野は胸が熱くなった。 (敬称略)