宮崎県立高鍋農業高校(上)大打撃の口蹄疫から復活

自慢させろ!わが高校
口蹄疫で犠牲になった家畜に黙祷をささげる高鍋農業高校の生徒=5月25日、宮崎県高鍋町

 ■和牛五輪2位「日本一の牛飼い目指す」

 5月25日、全校生徒約380人が体育館に集まり、黙祷(もくとう)した。8年前のこの日、高鍋農業高校(高農)は、すべてを失った。

 平成22年4月、家畜の伝染病、口蹄疫(こうていえき)が宮崎県を襲った。国内で10年ぶりの発生だった。

 ウイルスが引き起こす口蹄疫は、牛や豚といった蹄(ひづめ)がある動物がかかる。極めて強い感染力を持ち、幼獣が発症すれば、致死率は高い。国際獣疫事務局(OIE)は、最も警戒すべき伝染病の一つに挙げる。

 畜産王国・宮崎にある高農は、実習用の牛や豚を飼育する。計335頭が校内の舞鶴牧場にいた。

 懸命に、ウイルスの侵入を防ごうとした。人がウイルスを持ち込まないように、牧場への生徒の立ち入りを禁じた。

 畜産科(現・畜産科学科)は全寮制だ。3年生だった宮崎県西都市の酪農家、松生(まついけ)利恵子氏(25)=23年卒=も当時、寮で暮らしていた。口蹄疫発生後、自宅に戻れず、寮からも出られない日々が続いた。

 「生まれてからずっと当たり前だった牛との日常が壊れてしまった。ただただ悲しかった」

 松生氏は振り返った。

 だが、口蹄疫の猛威はやまない。学校がある高鍋町の隣、川南町でも爆発的な広がりを見せた。

 政府の口蹄疫対策本部は5月19日、発生農場から半径10キロ圏内の牛と豚にワクチンを打ち、全頭殺処分する方針を示した。

 OIEの規約では、口蹄疫などある種の伝染病が発生した場合、その国は「非清浄国」に認定され、輸出入で大きな制約が生じる。「清浄国」へ輸出ができず、非清浄国からの輸入も拒否できなくなる。畜産業にとって大打撃だ。

 清浄国に復帰するには、国内でウイルスが存在しないことを証明する必要がある。ワクチンで感染の広がりを抑えた上で、その家畜を殺さなければならない。日本の畜産業を守るには、この選択肢しかなかった。

 高農も10キロ圏内に入っていた。学校は5月22日、殺処分に同意した。

 処分は同25日朝に始まった。薬や二酸化炭素で命を奪う。生徒は、牧場から1キロ離れた校舎で待機した。それでも、豚の叫び声が響いてきた。

 作業は夕方に終わった。

 「牧場から音と臭いが無くなった。消毒用の石灰で、色も消えてしまった。口蹄疫は畜産だけでなく、あらゆる産業が打撃を受けた。犠牲になった家畜に、報いなければならない」

 横田雅人教諭(38)は、こう語る。

 22年8月27日、宮崎県は口蹄疫の「終息宣言」を出した。農家とともに、高農も再建へ歩み出した。

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 2学期が始まると、畜産科の生徒を中心に、新たな牛の受け入れ準備に取り組んだ。背丈ほどに伸びた牧場の雑草を刈り、畜舎を清掃した。

 子牛の入手ルートは、競りが中心だ。池澤洋平教諭(40)らが、県内外の競り会場を駆け回った。

 被害に遭った農家はみな、子牛を求めていた。競り合いになることは多かった。それでも、高農の関係者と分かると、「若い子には、頑張ってもらわないといけんからな。しっかりやってくれよ」と激励された。

 11月以降、牧場に続々と家畜が戻ってきた。牛や豚のいる日常が、再び始まった。

 「生徒は何もせず、ずっと牧場で牛や豚を見つめていた。あの表情は忘れられないですよ」。教諭の横田氏は、当時の光景を鮮明に覚えている。

 飼育を再開した高農生は、和牛の品評会「全国和牛能力共進会(全共)」を、次の目標に掲げた。

 全共は5年に一度開かれ、和牛のオリンピックと呼ばれる。手塩にかけた牛を出品し、高い評価を得ることは、和牛農家のあこがれだ。

 平成29年9月に宮城県で開催される第11回から、高校生部門の新設が決まっていた。

 ここで良い成績を収めれば、畜産業復興のまたとないアピールになる。明治36(1903)年の創立以来、110年にわたって地域の農業を牽引(けんいん)してきた高農が、果たすべき役割だった。

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 高校生部門は、雌の繁殖牛が審査対象だ。より良い子牛を産めるか、血統や体格から判断する。

 高農は、校内の舞鶴牧場で平成28年6月に生まれた「ももみひめ」の出品を決めた。宮崎牛を長年支えた種牛でありながら、口蹄疫で殺処分された「忠富士(ただふじ)」の血を引く雌牛だった。

 もちろん血統だけで評価は決まらない。繁殖牛としてふさわしい体作りが欠かせない。

 主担当として、ももみひめの世話をしたのが、築地伶欧(れお)さん(18)=30年卒、現・宮崎県立農業大学校畜産学科1年=だった。築地さんは、ももみひめの出産にも立ち会った。

 世話と調教に休みはない。朝5時と夕方4時ごろ、牧場の中を30分ほど散歩させる。

 築地さんは毎日、手綱を引いた。牛の体調をみながら、歩みのペースを決め、時には坂道に誘導した。

 月に2回ほど実家に帰ったが、牛の世話のため半日で学校に戻った。

 とはいえ、生徒だけでは限界がある。ベテラン農家の助けがあった。

 宮崎県都農(つの)町の黒木忠雄氏(70)と妻の栄子氏(70)だった。和牛農家だった黒木氏は、平成9年の全共で、繁殖用の雌牛部門で1位に当たる「優等首席」を獲得した。いわば金メダリストだ。

 だが、口蹄疫によって牛をすべて失った。子供同然の牛をなくし、悲しみに暮れていた。

 教諭の池澤氏が、夫妻を元気づけようと、高農に招いた。

 牛と、立ち上がろうとする若者に接する中で、夫妻は元気を取り戻していった。「若い子が、牛飼いを目指して頑張ってくれる。その姿は励みになった」

 そう語る黒木氏は、長年培った技術を惜しみなく、生徒に伝えた。その教えを、生徒は余すことなく吸収した。

 築地さんは「毛並みの整え方はもちろん、餌の工夫、全共で高い評価を得るための調教方法など、すべてが超一流の技術でした」と語った。

 全共が開かれる29年9月が来た。ももみひめは、宮崎から宮城までの長旅を無事に終え、同7日、審査に臨んだ。

 審査は発育状況やバランスをみる「体型審査」と、牛の世話など日頃の活動に関する「取組発表」の合計得点で競う。

 築地さんは、審査員を前に、ももみひめを引いた。その体には、口蹄疫からの復興への思いと、努力が詰まっていた。

 やがて、審査結果の発表時間が来た。

 「1列目の端に向かってください」

 係員から移動するよう促された。その場所は体型審査の1位を示す。

 黒木氏らとともに、育て上げた牛が、最高の牛と認められた瞬間だった。

 築地さんの胸中に、「喜び」「感謝」、あらゆる気持ちがわき上がった。

 「会場には、黒木さん夫妻もいらっしゃっていた。泣きながら喜んでいただいた。言葉にならなかったですね」

 「取組発表」では、口蹄疫からの復活を説明した。「宮崎、そして日本の畜産の後継者を目指す」と訴えた。

 総合評価は惜しくも2位だった。だが、口蹄疫からの復興を、全国に力強く印象づけた。

 そんな高農には、日本一の牛飼いを目指し、県外からの入学希望者もいる。

 畜産科学科3年の宮城陽介さん(17)は、沖縄県から来た。叔父が同県西原町で畜産農家を営む。その後継者を目指し、約1千キロ離れた高農の門をたたいた。

 現在、畜産科学科の希望者でつくる「肉用牛経営研究班」の部長を任される。

 「全国屈指の技術を持つ高農で学びたかった。3年間全寮制で、自分自身を鍛えられる。将来、沖縄の肉牛農家をしょって立つ人になりたい」

 口蹄疫の悪夢から8年。高農は力強く前に進む。

  (中村雅和)