【言葉の贅肉 伊奈かっぺい綴り方教室】間尺に合う人生を - 産経ニュース

【言葉の贅肉 伊奈かっぺい綴り方教室】間尺に合う人生を

 改めて思うほどのことではないのかも知れないが、生きてきたし生きている。自分が猫や犬ではなく人として生きてきたし生きているとなれば単純に“人生”と呼んでいいのだろうか。いいだろうね。人生とは、人がこの世で生きていること。私が思う人生とはそれ以上でも以下でもない。
 いかにも波瀾万丈で特異特殊な生き方をしておられる方を、お堅いドキュメンタリイタッチのカメラが執拗に記録し、記録されている…そんな人生とは無縁の身。素直に人として生きていて生きている。人生を哲学とか道徳とか歴史とか語学で思ったことなど一度もない。
 「あの人はなぜ人の道を踏みはずしてしまったのでしょうか」「それはね、ずっと人の道を歩んできたからですよ」「…?」「人の道を歩んできたからこそ踏みはずしたとたんに人の道からはずれます。これがもし、ずっと人の道からはずれた処を歩んでいたとしたら、踏みはずしたとたんに人の道に入り込んだかも知れません」「踏みはずして、さらに踏みはずす場合もありますね」「はい。どんどん人の道から遠ざかる場合が往往で」「けもの道を選んで歩く鹿や猪などは決してその道を踏みはずしません、と知りあいの馬と鹿が言ってましたものね」「馬と鹿がね」
 ふだんからあまりモノを考えない身としては、たまたま目の前を通った“人生”なる言葉についても、こんな笑い話ですべてを片付けてしまおうとする素直な自分がいとおしい。
 「ああ、ついに人生のどん底に落ち込んだらしい」と思った時、足元の下から人の話し声が聞こえる。「なんだ、まだ下があったのか」と少しは安堵。安堵とは、エンドに似た響きもあるが素直にアンドと読んで、さらにこの先もあるぞと思えるしあわせ。「泣いてもイッショウ、笑ってもイッショウ。なんとか両方合わせて“五合”ずつにならないでしょうか」の笑い話が若い人に通じない。
 日本古来の尺貫法を禁じ、すべてはメートル法にしておきながら、たまに飛行機に乗るとパイロットがマイクを握り「…ただいまの高度は○○フィート」法律に従い、ちゃんとメートルに直して言ったらどうだ。尺貫法をメートル法にしておいてフィートは容認しておるのか。テレビの音声が聞こえている。打ったボールが何ヤードで残りが何ヤードだと。尺貫法を禁じ、すべてはメートル法にと言いながらゴルフのヤードは許すのか、許しておるのか。
 すべてを尺貫法に戻せとは言わないが、飛行機の高度とゴルフの距離はとりあえずメートル法に従ったらどうだ。尺貫法にもメートル法にも失礼ではないか。尺貫法が作られた時代に飛行機もゴルフもまだ無かったから。メートル法はいつ頃作られたかなんて知りもしないが。
 フィリピンのタガログ語で“飛行場”はエアポートと言うのだと。それは英語であってタガログ語ではないだろうヨと訊いたら、タガログ語が作られた頃、飛行機も飛行場も無かったからだ、と昔、フィリピンパブで聞いたことがある。
 似てるかどうかは別にして尺貫法とメートル法、フィートとヤード。桜二分咲き、三分咲きは前にも触れた。寸分狂わぬ司法行政立法でなければ日本人として間尺に合わぬ。90センチ下がって影踏むぞ。この考え“人生”踏みはずしてますかね。人生、成行き成行き。 =次回は6月10日に掲載します。