【平成のクラシックはこうして生まれた】宮崎国際音楽祭(3) - 産経ニュース

【平成のクラシックはこうして生まれた】宮崎国際音楽祭(3)

 ■東日本大震災で中止の危機「何としても駆けつける」 若者が巣立ち、帰る場に 
 平成23年4月10日、宮崎国際音楽祭の音楽監督を務める徳永二男(71)は、福岡市中央区のNHK福岡放送局のスタジオにいた。何食わぬ顔で、29日に始まる音楽祭をアピールする徳永だったが、心の中は大きく揺れ動いていた。
 同じ頃、放送局の楽屋で、宮崎県から県立芸術劇場に出向し、音楽祭の準備に携わる加藤和樹(47)=現宮崎県企業立地課主幹=は、悲愴(ひそう)な面持ちとなった。
 「ここだけの話ですが、延期か中止を考えないといけない状況です」。徳永のマネージャー、入山功一(55)=現AMATI社長=から、こう告げられた。
 1カ月前、東日本大震災が起きた。東京電力福島第1原発事故で、パニックが広がった。放射能汚染で日本は壊滅する-。そんな根拠もない言葉が、世界中を駆け巡った。
 3月末以降、出演者との交渉をしていた入山に、海外の演奏家が、次々と辞退を申し出た。
 辞退者は外国人演奏家10人のうち、8人に達した。今回の目玉演奏家のバイオリニスト、ジュリアン・ラクリンも含まれていた。
 音楽祭は複数のメイン・スペシャル公演を核に、いくつもの関連公演で成り立つ。メイン5公演のうち4公演で、プログラム通りの実施が不可能となった。
 数日後、関係者を集めた会議が、宮崎県立芸術劇場であった。
 「事務方としては、予定通りの開催は極めて難しいと考えています」。加藤は中止を進言した。
 プログラムを変更するにしても、名前だけで観客を呼べる一流アーティストの代わりが、簡単に見つかるはずもない。楽器運搬などの手配、チケットの払い戻しや再発売も必要だ。
 2週間あまりで処理するには、課題が多すぎた。
 「中止もやむなし」。16年続いた音楽祭の火が、消えようとしていた。
 ムードを一変させたのは、徳永の声だった。
 「別の人を見つけてやろう。考えはある!」
 スタッフを鼓舞するように宣言した。
 徳永の脳裏にあったのは、人づてに聞いた県知事の河野俊嗣(53)の言葉だった。河野は4月初旬の庁内会議で、こう語った
 「自粛ムードはかえって良くない。普段通りの生活を送ることこそが、被災地への応援になる。口蹄疫(こうていえき)の時に、われわれはそれを経験しているじゃないか」
 平成22年、宮崎県で家畜の伝染病である口蹄疫が流行した。畜産業への直接の被害ばかりか、自粛ムードが広がり観光業への打撃となった。
 「今こそ音楽祭をやろう。誰もうつむいてはならぬ、だ」。河野はそう呼び掛けたのだった。
 音楽祭が続いてきたのは、河野だけでなく歴代知事の支えもあった。
 「今こそ、期待に応えるときじゃないか」。総監督で宮崎県立芸術劇場館長の青木賢児(85)も、徳永と同意見だった。
 日程を変更せず、開催する方針が決まった。
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 会議の直後、徳永は入山に1枚のメモを示した。
 「僕の基準で、決めてみたよ。リストの上から順に、声をかけてみよう」
 紙には、ピンカス・ズーカーマン、ボリス・ベルキン、諏訪内晶子ら国内外の一流演奏家の名が並んでいた。音楽祭に出演経験のあるアーティストだった。
 いずれも売れっ子。通常なら、1年先の予定を抑えるのすら難しい。
 運は宮崎に味方した。「移動日で空いていた」「ちょうどツアーでアジアにいる」「徳永が困っているなら協力しよう」。みるみる出演が決まった。
 バイオリンとビオラの演奏家であり、優れた指揮者でもあるズーカーマンは、二つ返事だった。
 「音楽祭が苦境にあるなら、何としても駆けつけたい。自分の音楽が役に立てるならうれしい」。そう語ったズーカーマンは、5つのメイン公演のうち、1つをまるまる担ってくれた。
 「ズーカーマンの夕べ」として、全6曲で指揮棒と弓を振ってくれるのだった。関係者は「奇跡だ」と喜んだ。
 ズーカーマンは、曲目にモーツァルトを多く選んだ。暗く沈んだ日本に、軽妙な曲で明るさを取り戻そうとしたのかもしれない。
 河野の発案で、音楽祭の売り上げの1割を、東日本大震災の復興支援に寄付することも決まった。
 プログラムは徐々に固まった。事務方の加藤や、上司の甲斐義規(53)=現・宮崎県河川課課長補佐=は、会場変更やチケットの再発行、楽器運送や合奏団の手配などに忙殺された。後から思い出せないほどの忙しさだった。
 それでも1公演だけ、中止せざるを得なかった。川南町での特別公演だった。
 川南町は、前年の口蹄疫で大打撃を受けた。特別公演は復興の象徴であり、関係者の思いは強かった。
 しかし、同町はメイン会場の宮崎市から、道なりに約50キロ離れている。非常事態にあって、対応に必要なスタッフを割く余裕はなかった。
 もともと公演を予定していた5月3日、甲斐は一人で川南町に向かった。
 中止の告知はしても、来る人は必ずいる-。その人に主催者として、頭を下げねばならない。
 初老の男性がやってきた。
 「しょうがねぇわな。さすがに」
 男性は、中止をわびる甲斐に、こう語りかけた。残念そうだが、とがめてはいなかった。甲斐は、その表情と言葉に救われた。
 5月14日、東日本チャリティーと銘打った公演が、宮崎県立芸術劇場で開かれた。バッハの無伴奏チェロ組曲第1番。荘厳な旋律が、幾何学的に繰り返す。死と再生。悲嘆と救済。ボリス・アンドリアノフが奏でたチェロの音色に、聴衆はふと被災地に思いを馳(は)せた。アンドリアノフもまた、「日本のために」と、急遽(きゅうきょ)来演したのだった。
 音楽祭は、最大の危機を乗り越えた。
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 一線級の演奏を届ける宮崎国際音楽祭は、音楽家育成の舞台ともなっている。
 平成30年3月19日、劇場地下のスタジオに、徳永の姿があった。
 「音の香りや、音色をもっと意識してみよう。綿飴みたいな感じで」
 徳永の言葉に、東京芸大付属高3年の武元佳穂(17)がうなずく。教育プログラム「ミュージックアカデミー」だ。
 武元は、28年12月の全日本学生音楽コンクールのバイオリン高校生の部で2位に入賞した。将来を期待される若手だが、本人は伸び悩みを感じていた。
 「大丈夫。去年より、確実に良くなっているよ」
 徳永の声に、武元は顔をほころばせた。
 アカデミーの原点は、音楽祭の生みの親の一人であるバイオリニスト、アイザック・スターン(1920~2001)にある。スターンは8年の第1回音楽祭で、リハーサルの合間を縫い、徳永ら出演者を指導する時間を設けた。
 徳永はNHK交響楽団でコンサートマスターの経験をもつ演奏家だ。それでも巨匠の教えに、子供のように興奮した。
 「音楽家にとって一番大事なのは、楽器を使って何を伝え、何を表現するか考えることだ」
 スターンの言葉を、徳永は周囲に伝えた。
 その言葉と精神は、徳永らを通じて、ミュージックアカデミーの受講生に染み入る。
 バイオリニスト、三浦文彰(25)もその一人だ。三浦は19年、アカデミーで指導を受けた。21年にハノーファー国際コンクールで、16歳という史上最年少で優勝し、スターダムを駆け上がった。
 三浦は翌22年、演奏家として音楽祭のステージに立った。巣立った雛(ひな)が、大きく成長して宮崎に帰ってきた。
 「ここで育てた音楽家が、国内外でトップの立場を担い、帰ってくる。それが宮崎国際音楽祭だ」
 28年の21回から、総監督を務める佐藤寿美(69)は、言葉に力を込めた。
 今年の第23回宮崎国際音楽祭は、4月28日に始まる。(敬称略)
  =おわり
 この連載は中村雅和が担当しました。