CASE3 名古屋城石垣の銘文 清正と家臣の物語刻む

千田嘉博のお城探偵
南西から見た名古屋城大天守台石垣(いずれも筆者撮影)

 先日、愛知県名古屋城の本丸をめぐる空堀底に降りて、大小天守台や本丸の石垣を調査した。名古屋城については、第二次世界大戦の空襲で焼失した大小天守を、木造再築する案を名古屋市が推している。しかし特別史跡として本質的な価値をもつ石垣や堀を壊してしまう再築は認められない。そこで天守の木造再築案とは切り離して、まずは石垣の現状調査を行い、必要な石垣修理の実施を検討することになった。名古屋城石垣部会の一人として堀底に降りたのも、石垣を調査し、必要な修理などの保全策を立案するためであった。(この記事は、平成29年9月20日付文化面に掲載されたものです)

 ■清正の理論示す設計

 名古屋城は、徳川家康が大坂城の豊臣秀頼との決戦に備えて1609(慶長14)年正月に築城を決めた。11月になって家康は加藤清正や福島正則、細川忠興、黒田長政など西国を中心にした20の大名に普請(堀を掘り、石垣を築く土木工事)を命じた。工事は急ピッチで実施され、驚くことに翌年の9月頃までに天守台や本丸など主要部の石垣が完成した。

 このうち名古屋城の大小天守台石垣は、加藤清正が望んで独力で築き上げた。清正は豪放な武将イメージが強い。しかし居城の熊本城を訪ねれば、精緻な城の設計に清正の理論的な考え方を体感できる。そして、この名古屋城大小天守台石垣に接すれば、清正が家臣や領民から慕われ、加藤家が無敵の強さと結束力を誇った理由がはっきり見えてくる。

 ■石垣が語る歴史

 名古屋城の築城は先に述べたように、多くの大名が工事を分担した。突貫工事の現場で、石切場から運んできた石材が紛(まぎ)れて争いにならないように、各大名は石に目印のマークを刻んだ。それを「刻印」と呼ぶ。まれに工事を分担した大名の名を刻んだものがあったが、大部分は○や△を組み合わせた単純な図柄であった。

 ところが清正が分担した大小天守石垣の隅石には、たとえば「加藤肥後守内 小代(しょうたい)下総」「加藤肥後守内 新森八左衛門」のように、清正と工事を分担した家臣の名を堂々と刻んでいた。清正のもとでともに大小天守台石垣を積み上げた家臣の名を、なんと一緒に刻ませたのである。

 豊臣と徳川との戦いとなれば、豊臣に味方するのではないかと疑われる状況で、徳川の城の天守台石垣に堂々と名を刻んだ清正の豪胆さ。そして家臣の労苦に報いるために家臣の名を石に残した清正の細やかな心情。この石垣を見て、加藤家の武士たちは清正のために身命をかけようと誓ったのではないか。城の石垣はただ石を積んだのではなく、そこに歴史があり、武将と人びとの物語がある。名古屋城を訪ねて大小天守台石垣を実見して、大きく刻んだ銘文から、清正と家臣の思いを体感してほしい。

 大天守台石垣北東隅石の「小代下総」はよく観察できる。しかし大天守台石垣南西隅石の銘文は注意が必要である。空堀の対岸から双眼鏡などを用いて拡大してみると「藤肥後守内 中川太良平(たろべえ)」となっている。銘文の最初は「加藤肥後守…」であるはずが、「加」の文字を失っているのである。じつは江戸時代の1752(宝暦2)年から尾張藩は大天守台石垣の西・北面の大修理を行って、清正以来の隅石の一部を外した。

 そのとき外した南西隅石をもう一度積み直そうとしたが、うまくもとに戻らなくなってしまったらしい。そこでやむなく石を短くして、表面を削って整えたと分析できる。銘文の「加」の欠損が、江戸時代の石垣修理の実像を教えてくれるのである。さすが熊本で「清正公(せいしょうこう)」と慕われる清正は、お城探偵にも優しい。(城郭考古学者 千田嘉博)

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 名古屋城 徳川御三家の一つ、尾張徳川家の居城。金のしゃちほこで知られ、「尾張名古屋は城でもつ」とうたわれる。16世紀前半に築かれた那古野(なごや)城の跡に徳川家康が築城した。1945(昭和20)年の空襲で大小天守や本丸御殿などが焼け、複数の隅櫓や門、堀、石垣を残すのみとなった。1959(昭和34)年に鉄骨鉄筋コンクリートで天守が復元された。