浸水面積から津波の高さを解明―安政南海地震(1854年) 都司嘉宣

温故地震
椿八幡神社の石灯籠=徳島県阿南市椿町(都司嘉宣氏提供)

 津波が起きた際、海水が標高何メートルまで到達したかを解明することは、被害状況の調査と並び津波の実態を知る作業の第一歩だ。

 2011(平成23)年の東日本大震災では、被災地の建物のあちこちに、海水が達した痕跡が線となって明瞭に残っていた。そのため津波の高さを知ることは比較的、容易だった。

 近代的観測が行われていない時代の地震でも、津波の痕跡について古文書に記録されていることがある。

 南海地震の一つである1707(宝永4)年の「宝永地震」については、高知県土佐清水市にある蓮光寺で、門前の石段の上から3段目まで海水が来たことが「幡南探古録」という古文書に記録されていた。

 そこで筆者らは現地の測量を実施。この地点の標高を調べ、津波が標高14・6メートルまで到達したと判定することができた。

 ただ古文書の記録は、このように測量作業に向いたものばかりではない。例えば1854(安政元)年の安政南海地震で津波に襲われた徳島県阿南市椿町で、椿八幡神社の門前にある石灯籠に刻み込まれた被害の様子は、このようなものだった。

 「津波で流された家は9軒、浸水した家は18軒。土砂が混じった海水が流れ込んできた。津波が引いた後は、水田30町歩余りが、置き去りになった泥や砂、石だらけになった」

 1町歩は約0・992ヘクタールだから、30町歩は約29・8ヘクタールとなる。この記述から、津波が到達した高さを知ることは可能だろうか。

 椿八幡神社はどんな場所にあるのか地図で確認してみた。すると、カニのハサミのように東側へ突き出た2つの半島に挟まれてV字形の湾の最奥部にあり、最奥部から内陸の西側へ幅約400メートルの水田が帯状に続いていることが分かった。

 これなら、津波に襲われた水田の面積を400メートルで割れば到達距離が分かる。計算してみると、すぐに745メートルと判明したので、さっそく海に近い水田の端から内陸に入り、その距離の地点の標高を計測した。

 結果は4・1メートルだった。ただ、水田は「泥や砂、石だらけになった」というのだから、海水の厚みが10センチ程度はあっただろう。その分を足して、安政南海地震の津波は、この地点で標高4・2メートルに到達したと結論づけることができた。

 古文書の記録は、分かりやすく直接的な表現ばかりではない。しかし、そこであきらめずに知恵を働かせて、なんとか解答を導き出してしまうのが津波研究者の仕事なのだ。(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)