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25年かけシェイクスピア個人全訳完結 人間肯定の劇 翻訳家の松岡和子さん

松岡和子さん訳のシェイクスピア全集(ちくま文庫)。最終巻『終わりよければすべてよし』(中央)と売り上げ上位の4冊
松岡和子さん訳のシェイクスピア全集(ちくま文庫)。最終巻『終わりよければすべてよし』(中央)と売り上げ上位の4冊

 全33巻、第1巻の『ハムレット』刊行からは25年-。翻訳家で演劇評論家の松岡和子さん(79)が手掛ける個人全訳「シェイクスピア全集」(ちくま文庫)が、12日に発売された『終わりよければすべてよし』で完結した。英文学を代表する巨人による深い人間洞察がにじむ全37編の戯曲は今も世界各地で上演されている。その魅力を松岡さんに聞いた。

 筑摩書房によると、日本でのシェイクスピア劇37編の個人全訳は坪内逍遥(しょうよう)、小田島雄志さんに続いて3人目。「生きている間にできた安堵(あんど)はありますね」と松岡さんは話す。

 全集の訳を始めたのは50歳過ぎだが、作品との出会いは早い。東京女子大での新入生歓迎公演で喜劇『夏の夜の夢』に出演し、シェイクスピアを学ぶために東大大学院へ。英米の現代劇から翻訳家のキャリアを築き、平成5年に初めてのシェイクスピア劇『間違いの喜劇』を邦訳。8年の全集刊行開始後には大学教員を辞めて翻訳に専念した。

 「最初は難しくて歯が立たなかった。でも役を演じれば気持ちいいし舞台を観ても面白い。たとえ現代劇の翻訳に逃げても、その劇中劇でシェイクスピアの部分訳をやらざるを得ないんです。ずっと追いかけられるから、もう運命だなと」

選択と断念

 シェイクスピア戯曲の言葉は多義的で、行間も広くて深い。「文章の中に『意味』『イメージ』『音での遊び』という3つのレベルがバウムクーヘンのように層を成す。それを縦に切って食べるのがシェイクスピアの言葉の味わい。でもすべてを日本語でも生かせるわけではなくて、選択と断念の連続なんです」

 例えば悲劇の最高傑作『ハムレット』。父王の亡霊から叔父に毒殺されたと知らされたデンマーク王子ハムレットの復讐譚で、ハムレットが放つ〈I am too much in the sun〉という皮肉に満ちたせりふは〈七光を浴びすぎて有難(ありがた)迷惑〉と訳す。〈sun(太陽)〉に、同音の「son(息子)」の意味も読み取り「親の七光」に掛けた。

 最も有名な〈To be,or not to be,that is the question〉の訳は〈生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ〉。これに先立つ第1幕でのハムレットの自分の堅い体が〈いっそ溶けて〉露になってしまえばいい、というせりふと呼応させている。

 巧みな性格描写に彩られたこの悲劇には、松岡さんの人生の支えになった金言もある。2年前に亡くなった夫の陽一さんががん宣告を受けてから何度も自分に言い聞かせた、という〈覚悟がすべてだ(The readiness is all)〉。「最悪のことが起きても自分はちゃんと立っていないといけない。この言葉は今も私の心棒として強さを増している」

 全訳の過程で名戯曲を貫く芯も見えてきたという。

 「悲劇も喜劇も共通項は人間の愚かしさ。聞くべき言葉に耳を貸さず、聞いちゃいけない言葉を信じて行動する。その過ちがとんでもない結果を招く。でもその愚かしい人間を否定しない。当時の英国は戦争やペストの流行もあった。作家の中に危機にひんした人間を救い、楽しませたい気持ちがあったのだと思う。だから悲劇を観ても肯定のエネルギーがもらえる」

稽古場で完成

 全集の翻訳は平成10年に蜷川(にながわ)幸雄さんの演出で始まった「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の上演と並行して進められてきた。だから「翻訳は舞台の稽古場で完成する」。最終巻『終わりよければすべてよし』でも稽古場に足を運び、演出家や俳優の動きを見て訳に手を入れ続けた。「訳者として作品の解釈はしても演出は最小限にとどめるのが基本姿勢。でも声のトーンを聞いて違った言葉が浮かぶこともある」と語る。

 「一言一句かむように訳してきたのに37本目で新しい難しさに直面する。シェイクスピアは『分かったつもり』の破壊者(笑)。宿題はごっそりありますよ」

(文化部 海老沢類)

 まつおか・かずこ 昭和17年、旧満州新京生まれ。東京女子大英文科卒。東京大大学院修士課程修了。著書に『深読みシェイクスピア』、訳書にT・ストッパードの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』などがある。

     ◇

William Shakespeare 1564~1616年 英国エリザベス1世時代の劇作家・詩人。悲劇、喜劇、史劇など37編の脚本と154編からなる14行詩(ソネット)を書く。代表作に、四大悲劇『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』など。

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