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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】悪魔的な人体実験映画

全体主義下のリアルな人間を映し出した「DAU.ナターシャ」(C)PHENOMEN FILMS
全体主義下のリアルな人間を映し出した「DAU.ナターシャ」(C)PHENOMEN FILMS

狂気の沙汰のプロジェクト

 悪夢を見た。某全体主義国の秘密警察に拘束され、灰色の殺風景な部屋で「お前ごときを殺すのはわけもないことだ」と脅されながら素っ裸にされて尋問を受ける。このあとは隣の部屋に移されて拷問か…。

 うなされて目が覚めた。夢と分かってほっとすると同時に、こう思った。衣服は薄いにもかかわらず人間が尊厳を保つ上で堅固なよろいになっている。身ぐるみを剥がされてしまえば、あっけなく洗脳されたり、精神を壊されたりするかもしれない。

 悪夢の原因ははっきりしている。昨年のベルリン国際映画祭で賛否渦巻く中で芸術貢献賞(銀熊賞)を受けた「DAU.ナターシャ」を見たためだ。

 この作品はロシアのイリヤ・フルジャノフスキー監督のプロジェクト「DAU」から生まれた。始まりは2007年。スターリン体制を批判しながらも水爆開発に貢献したとしてスターリン賞を授与され、1962年にはノーベル物理学賞を受けたロシアの理論物理学者、レフ・ランダウの長編伝記映画だった。ところがこの企画は誇大妄想的に膨らみ、ついにはスターリン体制下の社会を完全に再現するというプロジェクトに発展してしまった。「DAU」はランダウの名に由来する。

 パンフレットにはこんなうたい文句が躍る。《オーディション人数39・2万人、衣装4万着、欧州最大1万2千平米のセット、主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年…「ソ連全体主義」の社会を完全再現した狂気のプロジェクト!》。社会主義国のプロパガンダのようで、そのまま信じる気には到底なれないが…。

 それはともかく、このプロジェクトのためにウクライナ第2の都市ハリコフにスターリン時代の秘密研究都市が建設され、さまざまな経歴を持つ一般人から選ばれたキャスト200~300人が当時の服を身にまとい、当時の通貨、生活様式、道具、食事、言葉(ジョージ・オーウェルの『1984年』に出てくる新言語のようなものか)によって2年にわたって暮らした。ご丁寧なことに、その時代のニュースを伝える新聞が毎日発行された。参加した科学者は自分の研究を続け、ウエートレスは食堂で給仕をするなど、そこにはリアルな仕事と生活があり、必然的にいざこざや恋愛、ひいては結婚や出産もあったという。

 多数の脚本が用意され、撮影は2年にわたって断続的に行われた。ある作品で主人公だった者が別の作品では端役になるなど、最終的にはバルザックの『人間喜劇』のようなシリーズになるとみられる。キャストが演じるのは自分の経歴とかなりの部分が重なる人物であり、台詞(せりふ)ややり取りの多くは即興だったという。こうして35ミリフィルム700時間分の映像素材が撮影された。「DAU.ナターシャ」はこの映像素材から作られた1本なのだ。

全体主義社会の人間のリアル

 この作品には見る者をドキドキさせる展開もなければ、カタルシスを味わえる瞬間もない。だが、スクリーンに充満する陰鬱で異様な迫力に私は首根っこをつかまれ、最後まで凝視せざるを得なかった。

 こんな物語だ。主人公のナターシャは研究所の食堂で働く40代の独身女性。孤独を抱え、人生の下り坂を感じている。ある夜、フランスから招かれていた科学者と肉体関係を結ぶ。そのことがソ連国家保安委員会(KGB)の知るところとなる。彼女はKGBに呼び出され、尋問と屈辱的な拷問を受ける。それだけだ。

 ナターシャも科学者も尋問官も役者ではない。ナターシャ役は工場で料理人として働いた経験を持ち、現在は起業して営業の仕事に従事している。科学者役は生化学の博士号を有し、大学の研究職を歴任した。極め付きはKGBの尋問官役だ。心理学の学位を取得し、実際にKGB大佐としてウクライナ内務省で20年以上働いた。

 こうした人々が演じる、肉体関係を結ぶ場面、尋問と拷問の場面はもはや芝居と呼べるものではない。出演者の素があらわになっているだけだ。監督の狙いはまさにそこにあったのだろう。つまり、現実社会から隔離され、全体主義の疑似社会で一定期間暮らす人間が、ある状況に遭遇したとき、どのような心理状態に陥り、どのような行動を取るのかを、粉飾なくわれわれに示そうとしたのだ。

 なぜこんな作品が可能になったのか。推測にすぎないが、現場で監督はスターリンのような圧政者として君臨、スタッフや出演者の間に拒否権の行使など不可能と感じさせる空気が醸成されていたのだ。監督はこのプロジェクトで「悪魔的な人体実験」をしたのだと私は考える。世に「問題作」と喧伝(けんでん)される映画は多いが、本作こそ本当の「問題作」だ。

 いつの世も圧政がはびこり、多数の人々が隷従に甘んじている原因を考察したラ・ボエシの『自発的隷従論』に触発されたフランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユは「服従と自由についての省察」(山上浩嗣訳)の中でこう問うている。

 《クレムリンのひとりの男が、ソビエト連邦の国境内のどんな人間の首でも切り落とすことができるという事態がなぜ起こりうるのか》

 ヴェイユはこう考える。

 《「数は力だ」というのは真実ではない。ちょっと想像すればわかるように、数は弱さなのである》

 どういうことか。少数者である支配者はがっちりと結びつくことができるが、支配者に不満を持つ多数者が結合しようとしても、複数の個人が単に並んだだけになってしまい、けっして強さにはならないからだ。

 歴史上、多数者が一致団結して従来の秩序を覆す奇跡的な瞬間もあるが、それはけっして長続きしない。間もなく集団は個人個人へと分解し、支配者は代わったとしても、少数者が多数者を支配する元の状況が復活するというのである。

 「DAU.ナターシャ」の陰惨な内容を反芻(はんすう)しながら、「数は弱さ」というヴェイユの言葉をかみしめている。

 ※「DAU.ナターシャ」はシアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)、アップリンク吉祥寺ほかで上映中。R18+指定。

(文化部 桑原聡)

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