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【一聞百見】「キモカワ」…大阪万博ロゴの生みの親が明かす制作秘話

 見たことのない生物を見ると警戒心が湧くのが人間という動物。無機質であるという従来のロゴのイメージが、動きのある不思議な生命体に置き換えられたことによって、「気持ち悪い」という反応が現れたのは、当然といえば当然なのかもしれない。「気持ち悪いかもしれないけど、みんな関心をもって見てくれている。それは、いつかはかわいく見える可能性を秘めているってことでもあるんです」

 シマダさんにうまくのせられたのかもしれない。でも、なるほどなれてくると案外、かわいく見えてくるから不思議なものである。

太陽の塔 強烈なインパクト

 エキスポ’70には幼いころに4~5回は行っている。「5歳でしたから、内容はあまり記憶がないですけど、建物は印象的でした。アメリカ館、ソ連館。なにより、太陽の塔はインパクトがありました。とにかく強烈で、初めて見たときは、なんじゃこれ、と」

 「『みどり館』っていうのが好きやったんです。あんなでかい映像、それまで見たことなかった。音響も素晴らしく、汽車が通りすぎる映像はすごい迫力やったんですよ」。驚いたのは、それだけではない。とにかく、人、人、人…。「なんでこんなに人多いねん」というほど会場は人であふれていた。「活気、パワーが人から伝わってきましたね」

18歳、弟子時代のシマダさん。作業中の写真(本人提供)
18歳、弟子時代のシマダさん。作業中の写真(本人提供)
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 大阪生まれ、大阪育ち。もともと、モノづくりに関心があった。「中学のころは大工さんになりたかった。兄が設計の道に進み、大工さんもよく知っていて、現場でモノを作るのはおもしろそうだな、と」。高校時代にはファッションに興味をもった。「タケオキクチ、メンズビギ…。当時、デザイナーズブランドが全盛期で、ファッションの道に進もう、と専門学校に入りました」

 「入るときに悩んだんですよ。ファッションデザインかグラフィックデザインか。でも、イッセイミヤケたちがいるファッションじゃ一番にはなかなかなられへんやろ、と。それでグラフィックに進んだんやけど、合わへんかったんで、1カ月でやめました」

 しばらく、上本町にある母親の喫茶店を手伝っていたが、その店にはコピーライターやフォトグラファーたちが集まってきていて、その紹介で松江寛之デザイン事務所に入った。「カバン持ち、運転手みたいな仕事をする間に線の引きかたなどの仕事の技術を先輩から学んでいくわけです。徒弟制度みたいなものですから。弟子ですよ」。小遣い程度のお金をもらいながら勤めたが、事務所の合併話が起きたとき、違和感を覚えてやめてしまった。「21、22歳ころは、友人にごちそうになりながらミナミでプラプラしてました。良い友人をもっていたんですよ」

 その後、しばらくして松江事務所の先輩から声がかかり、百貨店の新聞広告などを作るプロダクションへ。モデルがいないときには、自分がモデルになることもあった。「1500円のジャンパーとか作務衣(さむえ)を着せられてチラシに出るんです。亡くなったうちのばあちゃんなんか、死ぬまで僕のことモデルやと思ってた」

(次ページは)人を喜ばせ自分も楽しむ…

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