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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】惨事便乗型全体主義にご注意を

コロナ禍で注目を集める「一九八四年」。写真は早川書房版
コロナ禍で注目を集める「一九八四年」。写真は早川書房版

 コロナ禍のため各国政府が私権の制限や侵犯に乗り出すなか、またぞろ英国作家、ジョージ・オーウェル(1903~50年)の『一九八四年』(1949年刊)が注目を集めている。オーウェルの研究で知られる日本女子大教授の川端康雄さんの次の言葉がブームの核心を見事に捉えている。

 《(ナオミ・クラインの用語をもじるなら)「惨事便乗型全体主義」とでも呼ぶべき動きにも注意を払っておいたほうがよさそうだ。「オーウェル」世界をフィクションに留め置くために、いまオーウェルから学びうることは多い》

 ちなみにナオミ・クラインとは『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を書いたカナダのジャーナリストだ。

「惨事便乗型資本主義」を彼女はこう説明している。

 《壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を私は「惨事便乗型資本主義」と呼ぶことにした》

 世界の人々がバタバタと亡くなる惨事のなかで、中国共産党は武漢でコロナ禍が収束したと、モデルを使った能天気なプロモーションビデオを作って自慢げに世界に発信、自分たちの体制の優位性をアピールしようとした。この「惨事便乗型全体主義PR」を目にして吐き気を催した人が大半だとは思うが、ネット上では「自粛警察」やウレタンマスク着用者を非難する「不織布マスク警察」が暗躍した。誰の心にも全体主義に傾斜する要素が潜んでいることをけっして忘れてはならない。

一九八四年的社会は隣国に存在

 4年前、トランプ氏が米国大統領に就任した直後、このディストピア小説が米国でベストセラーになったのは記憶に新しい。大統領側が発表した就任式動員数が現実とあまりにもかけ離れていたという批判を受けて、政権顧問が「嘘ではなく、報道官はオルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)を示したのです」と発言したのがきっかけだった。

 リベラルなメディアが、この発言を『一九八四年』の核心をなす「二重思考」という概念と結び付けて、同作が描くビッグ・ブラザー率いる党の支配する全体主義的社会が訪れるのではないかと警鐘を鳴らしたのだ。それはとんでもない見立て違いであったことは現実が証明している。

 「二重思考」とは、《相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること》だ。『一九八四年』の世界では「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」といった党のスローガンを疑いなく信じられなければ生きてゆけない。

 権力の究極的目的は権力の維持である。国民の幸福などは二の次。これは古今東西変わらぬ真理だ。ここではこの目的のため、党は監視、情報統制、歴史の改竄、新たな言語体系の構築、二重思考の推奨、密告の奨励、拷問、粛清、性の抑圧、仮想敵への憎悪の誘発といった手法によって国民を隷従させていた。

 だがトランプ氏の場合、ツイッターの発言を読む限り、権力の維持よりも、その時々のディール(取引)に勝つことにもっとも大きな魅力を感じていたように見える。ばくち打ち気質のマッチョとでも言えばよいか。だから崇高な理念などけっして口にしない。そもそもツイッターで脊髄反射のように敵を罵倒する人間が、周到に『一九八四年』が描くような世界を構築できるはずがない。そういった意味では分かりやすく、ある意味では信頼できる人物だった。

 いま世界でもっとも危険な指導者は中国の習近平国家主席だというのは衆目の一致するところだろう。彼はIT(情報技術)、AI(人工知能)を駆使して「一九八四年的社会」の構築に突進している。チベット人、ウイグル人、モンゴル人に対する弾圧など、部分的にはオーウェルの描くディストピアよりも悪辣だ。少し古い情報だが、昨年7月に英国の通信社ロイターはこんなニュースを配信した。

 《新型コロナウイルスの流行を受けた制限措置が終わり、授業が再開した中国の学校で、政治的に不適切と見なされた書籍を処分する動きが一斉に進んでいる。教育システムに愛国主義と純度の高いイデオロギーを深く浸透させようという、習近平国家主席の意向を強める動きだ》

 中国教育部が小学校と中学校に対し、共産党一党独裁にとって好ましくないと考えられる作品を学校の図書館から排除する指示を出したのは一昨年10月。コロナ禍のためその作業は進まなかったのだろう。

 ロイターの記事によると、排除された本の中にはオーウェルの『一九八四年』と『動物農場』(1945年刊)が含まれていたという。ちょっと意外だった。というのも共産党はこの2作をとっくに禁書にしていると思い込んでいたからだ。後者はスターリンとおぼしき豚による恐怖政治を寓話的に描き、前者は前述のように全体主義国家オセアニアを舞台にしたおぞましいディストピア小説である。

 この指示の元になった文書(2013年4月、党中央から幹部に通達された「9号文件」)がニューヨーク・タイムズに掲載されている。そこには西側諸国の価値観の流布をことごとく禁じ、共産党に忠実な奴隷のような人間を育成しようとする習氏の確信的な意志が現れている。

 オーウェルは『動物農場』ウクライナ版への序文に、少数意見をいだき、これを口にしてもけっして生命を脅かされたりしない国に暮らしている人間は、強制収容所、大量国外追放、裁判のない勾留、新聞の検閲といったことは本当に理解できないし、全体主義国家の宣伝の嘘も無邪気に信じてしまうと書いている。連合国の一員であったソ連に対して甘い幻想を抱く英国人のありようを批判したものだ。これはそのまま現在の日本人にも当てはまるように思う。

 中国共産党は『動物農場』の続編ともいえる『一九八四年』の描くおぞましい社会を部分的には超えた社会を現実に構築し、その版図をやみくもに拡大しようとしている。トランプ氏の去ったいま、米国は頼りになりそうもない。われわれはいま、とてつもなく難儀な時代に踏み込んでいる。そのことだけは自覚しておいたほうがよい。   (文化部 桑原聡)

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