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芸者文化を次代につなぐ歌舞練場はデジタル配信も万全

舞台開きの舞を披露する千代鷺さん(右)と八千代鷺さん=11月12日、松山市
舞台開きの舞を披露する千代鷺さん(右)と八千代鷺さん=11月12日、松山市
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 松山市での芸者文化の継承に取り組む一般社団法人「松山検番」が、芸者らの劇場・稽古場の歌舞練場「松山柳舘(やなぎかん)」を開いた。松山の芸者は、俳人・歌人の正岡子規が故郷をたつのにあわせて俳人の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)らが壮行会を開いた際にも呼ばれたとみられ、地元に根付いた存在だった。伝統をいまに伝える芸者らは「初心を忘れず、おごらず、努力していきたい」と話している。

「次世代につなげる」

 松山城のそびえる城山の北側、平和通りの一角に11月、歌舞練場がオープンした。木造2階建て。1階は板張り、格子天井の歌舞練場で、2階は事務所。建設にあたっては愛媛県八幡浜市保内町に保存されている明治時代の和洋折衷の擬洋館「旧白石和太郎邸洋館」を参考にした。

 お披露目された今月12日には神事に続き、松山検番の芸者、千代鷺(ちよろ)さん、八千代鷺(やちよろ)さんが舞台開きの舞を披露。千代鷺さんは「丈に合った大きさの歌舞練場をちゃんとした形で作りたいと願っていた、ここを拠点に次の世代につなげていきたい」と決意を述べた。

「浅草芸者に似ている」

 松山検番の歴史を調べているNPO法人「松実会」の事務局長、栗林孝充さん(61)によると、確かな文献で松山検番が初めて登場するのは明治28年。俳句をはじめ近代文学を刷新した正岡子規が松山に一時帰省した際だった。

 再び故郷を出発する子規のため、3月28日、門下の河東碧梧桐らが当時の松山の文化・政治の拠点となっていた料亭「明治楼」で壮行会を開いた。その席で詠まれた句に「春の夜小萬(こまん)と書きし名札あり」が残されていることから、すでに松山検番が存在していたことが分かるという。

 小萬さんは「江戸っ子芸者」という異名を持っていた。栗林さんは「松山検番の装束、風習は東京芸者、特に浅草芸者に似ている。理由はわかりませんが、江戸前は明治時代からの伝統なのでしょう」と話す。

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